レースの歴史

 

1960s

1964

レースの歴史1964年写真24時間耐久レースが初めて開催されたのは、18時間耐久レースが行われた翌年である。午後5時からスタートしたのは27台。24時間を走り切ったのは15台。リタイアした中にはPOPが東京から出ていったチームと、九州からやってきた鴨川チームの2台(ともにCB77改)が含まれていた。前年のようにはいかなかったのである。エントリーしていた顔触れには隅谷守男、鈴木忠男、本橋明泰、尾熊洋一、菱木哲哉、和田正宏といった後年それぞれ名を挙げた人たちがいた。まさに日本のロードレースが花開いた感がある。それも鈴鹿サーキットの登場で生まれた大いなる産物である。

ホンダが威信をかけたCB72は爆発的な売れ行きを見せていた。第1回目の鈴鹿18時間耐久レースは、CB72が登場して5年目の’64(昭和39)年8月1日から2日にかけて開催された。世界GPとは対局にあって、比較的一般向けのモータースポーツの普及を目指しただけあって、今日に及ぶ鈴鹿8時間耐久レースの定着が、それを証明している。POPにとって初の大きなチャンスだった。九州から駆けつけたのは総勢15、6人。チームの内訳は251ccクラスに松本明、緒方政治、青木一夫の3人のライダーとCB77。250ccクラスに倉留福生、渡辺親雄、高武富久美の3人とCB72。監督は両チームともPOPである。レースは120周を過ぎるころから2位につけていた倉留チームが270周手前でリタイア。かわって松本チームが1位をいくホンダの研究所チームのCB77をぴたりとマーク。そのプレッシャーに疲れたのか残り3時間過ぎにエンジントラブルで止まってしまった。あとは難なく走り切って記念すべき1位のチェッカーを受けた。

 

1970s

1971

1971ホンダの4輪スポーツ車は、62年のT360、S500から始まっている。このS600は’65年に登場した日本の4輪史に残る名車の1台となった。本来、4輪は好んでいなかったPOPだが、チユーナー心をくすぐるエンジンをのせていた。4気筒ダブルオーバーへッドカムエンジンは、いかにも挑戦の世界を求め続けた本田宗一郎らしさがにじみ出ている作品である。このころでは、2輪のほうでは2サイクルマシンの台頭著しく、いかに精魂を込めたチユーニングを施しても、POPのCBが勝てる可能性は低くなるばかりだったから、よけい4輪に熱を上げたのである。結果は、大成功。

森脇護は2輪での優勝を第10回(初)と第12回日本モーターサイクルクラブマンレースのジュニア250ccクラスで果たしたあとは、4輪レースにも出場していた。’70年7月26日、全日本フジ1000kmレース(GTS1)でまず1勝目。続いて’71年のビッグイベント、ジャパングランプリ(GTS1)での優勝はヨシムラS600のポテンシャルの高さを実証してあまりあるものがあった。

 

1978

1978高速のダンロップブリッジを登るトップグループ。まだトラブルの発生しないTZを快調に走らせるデビットエムデ。GPマシンKRでこれを追う和田将宏、そしてクーリーの駆るヨシムラGS1000。3車三様のマシンが当時の8耐の背景を物語っている。この後、KRは耐久レースの試練に耐えられずに、徐々に遅れをとってリタイア。TZもトラブルに見舞われ、トップは予定どおりヨシムラのものとなっていった。4サイクルアップハンドルの市販車改造レーサーが、生粋のレーシングマシンをことごとく破るというレース結果は十分に衝撃的だつた。8時間後の表彰台は、ヨシムラ健在の証だった。たび重なるクラッチトラブル、レース時のフロントフォークボルト切損、トラブルは後から後から襲いかかったが、ヨシムラは強かった。まだシステムのシの字もない前時代的な体制ではあったが、レースに勝つには何が必要なのかを、ヨシムラはよく知っていたのだ。

1978記念すべき第1回8耐(1978)のスタート前。これがポールポジションの位置である。左から浅川メカ(実は、彼はこの時まだ正式な社員ではなく、単なる客のひとりだったがチームに参加していた)、POP、大矢メカ、故・加藤昇平。それにしても、バックに見えるピット風景のなんと閑散としたことよ。チーム関係者や報道陣などでごったがえすことなく、こんな風にのんびりと最後の作戦会議を行った時代だった。

 

1979

1979スタート前のロン・ピアース、POP、ウェス・クーリー、大矢メカ、由美子、浅川メカ。前年の勝利を引っ下げてきたものの、2年目8耐に勝算はなかった。新しい試みが次から次へと問題を生じ、とても勝負に望む体制は整っていなかったのだ。マシンは前年同様GS1000だが、アップハンドルを引っこめてレーシングポジションのニューマシン。フレームも市販車ベースではなかった。予選から煩わされたのはブレーキ関係のトラブルだったが、最後はエンジンブローという結末でリタイアが決まった。レースはモリワキのグレーム・クロスビーの活躍や金谷秀雄のTZの速さなどで盛り上がったが、この両者を始め、リタイアも多かった。本命どころはほとんど姿を消したといってもよい状況で、優勝したのはホンダオーストラリアのトニー.ハットン/マイク・コールで、ハットンは前年モリワキに乗って3位となった選手だった。ホンダは耐久チームではなく、スプリント派をそろえてヨシムラに挑んでいたのだ。

1979豪快なクーリーのフォームも、マシンに合わせていくらかコンパクトになったようだ。調子の悪いマシンをセットアップしている間も、彼らはPOPの信頼を崩さない。ヨシムラとライダーの関係は、日本的な義理と人情の世界をはるかに超えた信頼関係にあったようだ。事実、エンジンがブローしたマシンを、ピアースは延々と押して、ピットまで運んできたのだった。ライダーもまた、ヨシムラとヨシムラマシンを愛していたということだ。

 

1980s

1980

レースの歴史1980年写真
間もなく2度目の勝利ゴールだ。この年からスズキワークス入りして世界GPを走っているグレーム・クロスビーがこのレースに特別参戦。まさにこの時、イギリスでGPが行われていたが、クロスビーは鈴鹿でヨシムラマシンに乗ることを選択した。しかもクーリーの苦手な夜間走行を一手に引き受け、チェッカーまで全力で突っ走った。それはぎりぎりの選択だった。というのは、2位になったグレッグ・ハンスフォード/エディー・ローソンのカワサキは、彼らのたった40秒後を走っていたからだ。カワサキはヨシムラのサブチームで走っていたマイク・コールと接触して、エディー・ローソンがスリップダウンするアクシデントがあったが、ヨシムラもまた、予定外のブレーキパッド交換で約2分を失うというハプニング。双方とも、息つく暇のない8時間だった。こんなトップ争いは、その後の8耐の歴史を見ても例がない。このレース以来、ゼッケン12はヨシムラの指定ゼッケンになった。

レースの歴史1980年写真激しかった8時間の末に、クロスビーとクーリーに担ぎ出されて、表彰台の主役はPOPになってしまった。左から若き日のローソン、ハンスフォード、レースクイーンの下のほうに、シャンパンを持つクロスビー、POPの後ろには、白い歯がうれしいクーリー。3位になった右の二人は、エルブ・モアノーとマーク・フォンタンで、この年から始まった耐久世界選手権の初代チャンピオンになった。

 

1982

レースの歴史1982年写真予選までは晴れていた。雨は未明から降り始めて、どんどん雨量を増していった。台風10号。それは本土を直撃する大型の台風だった。1,000ccのビックマシンは、その余るパワーで水の上を空しく空転する。世界のトップライダーをもってしても、この台風は手に負えなかった。ヨシムラマシンも、グランドスタンド前のストレートで転倒する。ライダーは前年の勝者デビッド・アルダナだった。屈辱的な転倒、しかし彼らは走り続けた。ヨシムラのハイパワーを発揮することはできなかったが、これもレースなのだ。台風はどんどん鈴鹿に接近して、レースは6時間経過時点でチェッカーを受けた。優勝以下上位には、国内4メーカーのテストライダーたちがずらりと並んだ。日本の雨を走り慣れている者たちの勝利だった。しかしアルダナとウェス・クーリーのヨシムラは、そんな中にあってしっかりと6位で完走した。

シーズン前に、悲しい出来事が起こった。スズキの竜洋テストコースで、マシンのセットアップをしていた加藤昇平が転倒、帰らぬ人となってしまった。不幸を乗り超えて、ヨシムラのマシンは新しい姿で登場する。その名もヨシムラテスタロッサ伊太利屋で、マシンはピンクと白に塗装されていた。ライダーもピンクのレーシングスーツを着用し、イメージ一新のヨシムラ陣営であったが、台風の襲来には勝てなかった。それでも6位に入ったのは、ヨシムラならではだったのかもしれない。

 

1983

レースの歴史1983年写真鈴鹿サーキットの最終コーナーにシケインが設置された1983年。その年の8時間耐久ロードレースにヨシムラはグレーム・クロスビーとロブ・フィリスのコンビで参戦。そしてマシンにはPOP吉村の手によるGSX4バルブエンジン+モリワキフレームが施され、「ヨシムラ・モリワキ」仕様でポールポジションを獲得。決勝レースはエンジントラブルを抱えてしまい惜しくも13位でチェッカーとなった。
また、GSX刀(F1クラス)は1000ccレギュレーションで全日本選手権にも組込まれていなかった。4サイクルビッグマシンの活躍の場は鈴鹿のスーパーバイクレース、富士スピードウェイのスーパープロダクション等に限られ、多くのチームが鈴鹿8耐はぶっつけ本番で臨んでいた。

 

1984

レースの歴史1984年写真84年はひとつの節目だった。750ccマシンで初のレースになったこの年は、ホンダ以外のメーカーにとっては、初体験のマシンを走らせることになった。ホンダが前年に走らせたRS850は、このレギュレーションを見込んだマシンなのだ。ヨシムラが用意したGSX750Eは、グレーム・クロスビーとレン・ウィリングスが走らせる。節目といえば、F1クラスが全日本選手権として正式採用されたのも挙げなければならない。ゼッケン12のクロスビー組に加えて、ゼッケン58、2台目のヨシムラマシンが走り始めたのもこの年からだった。予選はガードナー、八代のヨシムラファミリーについで3位。そして迎えた決勝、3時間を過ぎたところでクロスビーがストレートでブローアップ。ピットロードを逆走してマシンを押してくるが、ここで万事休す。このほんの数周後、今度は池田がS字でブローアップ。2台のヨシムラは同じ原因で、仲良く息の根を止めてしまったのだった。12のマシンはモリワキフレームを採用し、カラーリングにも、現在の原型が感じられる。

レースの歴史1984年写真2台目のヨシムラには日本人ライダー。最近の8耐では固定化されたこのフォーメーションは、この年に初めて採用された。世界GPにスポット参戦した経験を持つ池田直と、国際B級時代圧倒的な強さを誇った三浦昇。8耐では最速日本人コンビの一角となるはずだったのだが、これから順位を上げていこうというころになって、エンジントラブルでリタイア。ヨシムラでの8耐を終えた。

全日本選手権に、ヨシムラマシンが登場した。国際B級時代圧倒的速さを発揮した三浦昇と、2年間のGPチャレンジ経験を持つ池田直。ばりばりのスプリント派のふたりにヨシムラとくれば、そのスピードは保証されたも同然だ。連戦のポールポジション、ヨシムラの速さは、ここでも証明された。しかし結果は予選とは違った。レースを完走するノウハウが、ライダーたちにもヨシムラにもまだ欠けていた部分だった。

 

1985

84年、初めての全日本F1チャンピオンはモリワキの八代俊二が獲得した。1)八代以下、2)徳野政樹、上野真一らのベテランを従えて、50)辻本聡がいいスタートを切った菅生でのレース。菅生での勝利をきっかけに、辻本は一気に全日本チャンピオンへの道を突き進むことになった。国際B級からぎりぎりの成績でA級に昇格、見るべきリザルトはわずかに8耐の11位だけだった辻本だが、ヨシムラマシンとの相性はぴったり。その才能を遺憾なく発揮した。エンジンのパワー不足に悩むモリワキ、操縦性に問題ありのホンダ、デビュー間もないヤマハ・・・、そんな中にあってヨシムラだけは、すべてのバランスが高次元にあった。様子を見ながらシーズンをスタートした辻本は、自身のポテンシャルとヨシムラのポテンシャルを確認するや、後半めきめきと全日本選手を牛耳り始めたのだ。

レースの歴史1985年写真タイトルを獲得したF1に比べて、F3はやや苦戦を強いられた。ライバル、山本陽一とホンダRVFは、手がつけられないほど強かったのだ。山本が勝てない時には、徳野がきっちりトップの座を守った。HRCチームはこれにヨシムラから移籍した三浦昇を加えて、完璧ともいえる体制を整えた。ことF3クラスに関しては、HRC陣営のシーズン全勝は、決して難しくないと思われたものだった。30喜多、55辻本。HRCの快進撃は最終戦まで続くかに見えた。前年チャンピオンを獲得したヤマハを始め、他陣営はHRCの勢いを崩せなかった。シーズン最後のレースになった。スタート前、喜多は高らかに勝利を宣言した。山本とのしれつなデッドヒートの末、喜多はわずかに前へ出て、シーズン唯一、HRC以外の勝利者となった。ヨシムラと喜多の、勝利への執念が実を結んだレースだった。

レースの歴史1985年写真新しいマシン、新しいライダーたち。ヨシムラは盛り上がった。アメリカからの掘り出し物ケビン・シュワンツは、8耐で鈴鹿を走るのが2度目。初めて日本に来た当初は、おかしなリーンアウトのライディングフォームと評されたが、徐々に本領を発揮し始めていた。喜多祥介(故人)は、カワサキから移籍してきたテストライダーだった。彼は、より大きい活躍の場を求めてヨシムラを訪れたのだった。シュワンツ、喜多。ふたりのヨシムラライダーを、普段は2サイクルの500ccを活躍の舞台とする木下が必死で追いかける。ホンダRVFは圧倒的パワーを誇っていたが、スマートなヨシムラGSXーRは、トータルの性能でこれを引き離せる能力をもっていた。シュワンツ/グレーム・クロスビー組は3位、阿部孝夫/木下恵司組はその後に続き、ヨシムラでの初挑戦となった喜多/辻本聡は6位に入賞した。POPは勝てなかったことが不満だったが、結果は悪くなかった。

ケビンが長い脚でマシンを振り回すようなフォームを見せるのは、もう少しあとになってからのことだ。いかにもダートトラックで修行を積んだというような深いバンク角と、リーンアウト。オーソドックスなクロスビーに対して、ケビンはひと際注目を集めてしまった。この時得た3位のリザルトは、元GPライダー、クロスビーの功績か、それとも未来の世界チャンピオン、ケビン・シュワンツの功績だったのか。

 

1986

レースの歴史1986年写真ケビン・シュワンツは、いよいよ世界を走り始め、いきなりポイントを獲得。GPライダーとしての将来が約束された状態で迎えた8時間耐久だった。ほかの参加チームで勢いがよかったのは、前年にケニー・ロバーツがゴール30分前までトップを走ったヤマハだった。ロバーツは、チームロバーツとしてボールドウィンとペアを組んだ。ボールドウィンは、これで3メーカーのマシンを駆って8耐に出場したことになる。平はクリスチャン・サロンと。GPライダーが目白押しのなか、優勝はワイン・ガードナーとドミニク・サロンのGPコンビのホンダ。シュワンツと、全日本チャンピオン辻本聡のヨシムラペアは、3位に甘んじている。シーズン序盤に辻本が足を骨折して自由な動きができないため、このマシンのチェンジペダルには蹴り返しがついてくる。

レースの歴史1986年写真最終戦で。前列左ふたり目から浅川メカニック、宮崎祥司、大島行弥、加藤陽平(故昇平長男)、今野メカ。後列の吉村不二雄、辻本聡、POP、加藤由美子、高木メカほか。この年、喜多が抜けてチームの陣営はやや変化を見せた。辻本はデイトナ遠征など、新たなチャレンジを始めていた。全日本には新しいパワーが必要だった。この年チームに加わったのは、スズキの社員ライダーから転向したきた宮崎と、国際A級1年生の大島だった。小柄な宮崎は400ccに専念し、大島がF1を受け持つという当初の予定は、辻本の負傷で若干の修正を余儀なくされた。F3は押しがけスタートのため、足の悪い辻本には無理。辻本はF1に専念、F3は宮崎と大島のふたりで参戦というかたちになり、辻本が欠場している間は宮崎もF1を駆るという、やや変則体制となった。しかし結局辻本は見事チャンピオンを獲得し、ルーキーの大島も辻本に次ぐランキング2位を獲得。ヨシムラの強さは、ここでも十分に証明されたのだった。

レースの歴史1986年写真デイトナから帰国して、辻本はF1、F3ともに無敵だった。つい調子に乗りすぎて転倒、あの負傷がなければ、HRCの圧勝劇に終わったF3クラスも違う歴史で綴られていたかもしれない。しかしF1のほうは、負傷などどこ吹く風、まったく辻本ペースでレースは進められた。デイトナでの経験は、辻本に無心のライディングを叩き込んだが、結果的にはそれが辻本の2連覇の原動力となった。

 

1987

レースの歴史1987年写真辻本は全日本を卒業、AMA全戦出場をもくろんで旅立っていった。しかし不運は容赦しない。信頼すべきチームメイトのケビン・シュワンツの転倒に巻き込まれ、辻本は首に大きなダメージを負ってしまった。辻本のレース人生にも、ヨシムラのレース計画にも、はたまた日本のレース界にとってみても、辻本のこの負傷は大きな損失だった。しかし一方、辻本不在の予定で進められていたヨシムラの全日本体制は、若手を中心にがっちり固められていた。ゼッケン2)を付ける大島行弥は辻本の強さをそのまま受け継ぎ、ヨシムラ3年連続チャンピオンの偉業を達成する。宮崎の抜けた席には、前年の4時間耐久の覇者高吉克朗が入っていた。高吉のあと、ノービスの天下をとらんとヨシムラマシンを駆ったのは、安藤武と中村久智。彼らはその期待に十分応えて、ポールポジションから4時間を制覇した。ヨシムラの2年連続優勝である。

レースの歴史1987年写真A級2年生ながら、ゼッケン2を付けてすっかりベテランの風格の大島と、いかにもルーキーのゼッケンをつけた高吉が、菅生のウェイティングエリアでスタートを待っている。高吉はその後、メカニックとしてヨシムラを支えることになるが、一時はマシンの製作からトラックへの積み込み、スペアパーツの準備、そしてライダーと、ヨシムラのすべての仕事をこなしていたという隠れたパフォーマンスを発揮した。

時には、こんなこともある。生き残りを争うといえば、A級のレースよりもはるかに激戦区かもしれない。中村は、ちょっとばかりエンジンを酷使しすぎてしまったのだろうか。それとも、今回のチューニングはやり過ぎだったのか。なぜブローアップしてしまったのか。その原因をつきとめるため、ヨシムラのベンチ室はさっそくフル回転を始めることだろう。ヨシムラのベンチには、休日はない。

レースの歴史1987年写真予選3番手からスタートしたヨシムラの本命チーム、ケビン・シュワンツ/大島行弥組は、1度もライダー交代することなくエンジントラブルでリタイア。ヨシムラの8耐はこの時点で終わったかと思われたのだが・・・・・。この年のセカンドチームはギャリー・グッドフェロー/高吉克朗だった。予選9位からのスタートだった彼らはコンスタントに走り続け、4時間を過ぎてトップを走っていたドミニク・サロンの転倒と同時にトップに躍り出た。以後はそのままトップを快走し、ダークホースながらヨシムラ3度目の勝利も確実、とだれもが思ったその時、暗闇の中の2コーナーで高吉が周遅れと接触、危険を回避した高吉はダートに飛び出して転倒してしまった。この間にトップはヤマハのものになるが、高吉はすぐさまマシンを起こして走り続け、見事2位を獲得した。疲労困憊した高吉はゴールと同時に倒れ込むという、ヨシムラ8耐史上に残るドラマとなった。

レースの歴史1987年写真4時間を制覇したその勢いで国際A級に昇格、さらに8耐のトップグループを走ってしまったというのは、高吉以外にはちょっと例がない。この1戦で、高吉の株はおおいに上がることになった。闘志を表に出さない、控えめ目なタイプ。その後の高吉は全日本選手権などに参戦するが、やがてメカニックとしてヨシムラを陰から支える戦力に回ることになる。几帳面な性格は、チームの中でも重要な存在となった。

 

1988

レースの歴史1987年写真シヤンペンの舞う表彰台。2位のポーレンとシュワンツ、1位のウェイン・レイニー、ケビン・マギー。3位に入ったピエール・エティエーン・サミン/アドリアン・モリラスは、シャンペンシャワーを逃れて、カメラのフレームから外れてしまった。設計の古い油冷エンジンのハンデを背負いながら、コンスタントな速さには実績もついて、ヨシムラの8耐制覇もあと一歩のところにきた実感があった。

 

1989

レースの歴史1989年写真ダグ・ポーレンが本格的に日本にやってきた。ヨシムラとダグ、この新しい1ページを刻むことになった。マシンのコンディションを正確に把握しながら、適確なスロットルコントロールでマシンを前に進める。ポーレンのライディングは、蛮勇で速さを稼いでいたライダーたちには、大きな衝撃となった。ポーレンの口からは、その速さの秘密がアメリカ人らしい明るい口調で日本人ライダーたちに説明されたのだ。ストイックなヨーロピアンライダーたち、あるいは奔放なアメリカンライダーたち。ポーレンはその両方を備えたライダーだった。レースが終われば、恋人(のちにちゃんと結婚する)のダイアンと、甘いシーンを見せたりするのも、ポーレンのポーレンたるところなのである。そして、全日本史上初めての、F1,F3、両クラスのダブルタイトルホルダーが誕生した。

エースの不調を尻目に、コンスタントに順位を上げてきた高吉克郎。最終的には5位のポジションを得た。GPライダーたちの脱落が多かったため、地道な努力家たちが報われる結果となった8耐でもあった。優勝したサロン/ビエラは、この年のFIMカップ耐久チャンピオンになった。

レースの歴史1989年写真ダグポーレンとケビン・シュワンツのコンビネーションも2度目。チームワークは完璧だった。走りおわったポーレンが、ピットクルーになにかを伝えようとして急いでいる。この年、ヨシムラGSX-Rはたび重なるガス欠症状に悩まされた。実はチョークが効いたままで走っていたという事実が発覚したのだが、失った時間はあまりにも大きかった。悔しさに全身をうち震わせながら、スロー走行でピットに向かうシュワンツの姿が、1度ならず見受けられた8耐になってしまった。優勝したのは耐久の世界選手権を戦っているペア、ドミニク・サロン/アレックス・ビエラのフランスホンダチーム。2位には宮崎祥司/大島正が入り、久々に日本人同士のペアが表彰台に登った。前年優勝したヤマハチームがエンジントラブルで戦列を去り、トップを独走していたRVFがマイケル・ドゥーハンの転倒でリタイアしていたから、ヨシムラには手痛いミスとなってしまった。

 

1990s

1991

1991年レースの歴史写真8耐が雨に濡れた。あの台風10号に見舞われた82年以来のことだった。あの時と違ったのは、1日中降り続く雨ではなく、降ったりやんだり、まったく猫の目のような忙しさだった。レインタイヤからスリックへ、スリックからレイン、はたまたスリックへ。予定外のタイヤ交換を繰り返しながら、それでもなおトップ争いを続けていたのは、ウイン・ガードナー/マイケル・ドゥーハンのホンダと、ケビン・マギー/ダグ・チャンドラーのヤマハだった。対してトム・キップ/青木正直、スティーブ・マーチン/マット・ブレアの2台を擁したヨシムラは、七転八倒の8時間を演出してしまった。2台のマシンがそろって転倒し、しかも2台とも転倒から火災を融発、それでもその2台がピットまで帰りつくというしぶとさを見せた。発表されたリザルトに残ったのは、9位と28位。しかし成績には残らないドラマが、8耐にはある。

予定どおりトム・キップがピットインしてくるのを落ち着いて持ち受ける青木正直とピットクルー。しかし、レース残りわずかとなってトムが転倒した時には大さわぎだった。トムはちぎれたフューエルチューブをつないで、なんとかピットまで帰ってきた。ゆっくり修理をしている暇はない。ガムテープでタンクが固定された急造のニューマシンが完成した。かわりはてた姿にちょっとためらいを示しながら、青木が9位のチェッカーを目指してピットをあとにした。

1991年レースの歴史写真最初のハプニングは、マーチンのライディング中に起こった。転倒、そして出火。それでもレースをあきらめることなく、マーチンはピットへの帰還を試みる。帰ってきたマシンは、すぐに修復できるようなものではなかったが、今度はピットクルーの活曜の場面だ。修復作業の結果、彼らは8時間を完走する。メカニックの仕事が、直接リザルトに反映すのるを観戦できる貴重なチャンスが8耐である。

 

1992

1992年レースの歴史写真すっかりヨシムラライダーとして風格を身につけた青木正直。ペアライダーに抜擢されたのは大阪賢治。ノービス時代は青木と同じくミラージュ関東に所属していたヨシムラ血統のライダーだ。ヨシムラ伝統のゼッケン12は、このふたりの若き日本人ライダーに与えられることになった。予選は武石伸也についでAグループの2位。4番手からのスタートポジションを獲得した。ポールポジションから優勝を飾ったのは、ワイン・ガードナー/ダリル・ビーティーだったが、ガードナーは8耐に出場するのは最後だと宣言。’81の初出場以来、数々の記録を残してきた8耐の王として、有終の美を飾った。ガードナーは4回の8耐勝利記録を残したわけだ。レース終盤、これを追撃していたのは伊藤真一/辻本聡だったが、伊藤が消火液に乗って転倒。久々のF1で辻本が本領を発揮しただけに残念であった。

1992年レースの歴史写真第2戦筑波で2位の表彰台に立つ青木(右)。青木は、もう1歩のところまでつめ寄りながら、とうとう勝利を得られずに終わった。このレースで優勝したのは、ホンダRVFを駆った武石伸也。2位の(故)永井康友(YamahaYZF、左)とともに、速いがレースを落としてしまうことが多いふたりであった。スズキワークスの柳川明ら、1発のスピードには自信のあるライダーたちが目白押し。F1レースは群雄割拠だ。

 

1993

1993年レースの歴史写真シケインを立ち上がる3台のGSX-R、前から大阪、ビエラ、そしてスズキ本社仕様のマシンに乗るアレッサンドロ・バロス。スズキはここ数年、かつてのようにヨシムラのエンジンを使用せず、オリジナルチューンを施したマシンを走らせていた。その初年度はトラブル続きのままリタイアの憂き目に遭ったが、このあたりから徐々にスピードを身につけてきて、ヨシムラマシンを脅かす存在に成長してきた。

’90年のコンビを組んで以来、青木と3回目のチームになる大阪。ヨシムラでのコンビは2回目だ。しかしこの時の大阪はちょっとばかり失敗をした。所はスプーンカープ立ち上がり。130Rに向かって、アクセルを大きく開けたいポイントだ。毎年上位を走るチームの転倒が多い難所でもあった。この年は特に転倒が多かったが、転倒後に上位に復帰したチームが多かったのも、珍しいことだった。

1993年レースの歴史写真ラクティス。大阪賢治と、大阪を追ってタイムを詰めようとする青木正直。ひたむきなレースへの姿勢は似ているが、走りの個性は随分と対称的なふたりだった。安定した走りの大阪と、速さを身上とする青木。ホンダもヤマハもワークスライダーは1名だけだったから、個性豊かなライダーを2名走らせるヨシムラは、チームとしての厚さももっている。この年もっとも勝利をしたのは永井康友だったが、永井はレースを落とすことも多く、チャンピオンには前年のランキング2位、北川佳一がおさまった。たいしてヨシムラのふたりは、選手権の重要なキャラクターとして存在を主張したが、勝利を得るには至らなかった。巨大メーカーの全面対決となったF1クラスは、この年を最終に消減し、’94年からは改造範囲が大幅に制限されたスーパーバイククラスとして再出発することになる。ヨシムラにとっても、新しい出発の年となるはずである。

 

1997

1997年レースの歴史写真1997年の鈴鹿8時間耐久レースは、台風一過の快晴とはならず、雨天でのレースとなった。芹沢/小西ペアのヨシムラは先頭集団が崩れていく中、順当に走行を行ない、中盤には3位を走行するが、トップをねらうホンダのバロスと接触。転倒してしまう。何とか小西が転倒したマシンを押してピットイン。メカニックの必死の修復作業の後にピットアウトし、鬼神の走りを見せるものの午後5時過ぎに再転倒を喫し、リタイヤとなってしまった。

 

1999

1999年レースの歴史写真この年に発売となったGSX1300R隼でのレース活動を開始したヨシムラであるが、初年度ならではのトラブルも多発した。全日本選手権鈴鹿200kmレースではスプロケットが、あまりのエンジン出力に耐えきれず破損。バンク角も不足しており、練習走行で走行しただけでもカウルの左右とも削れてしまう状態であった。しかしそのエンジンは200馬力を超え、重量面でもハンデのあるヨシムラ隼に、怒濤の加速性能をもたらしていた。

鈴鹿8時間耐久レースでは、メインライダーの鎌田学、ペアライダーに小倉直人を起用。2度ものサイレンサーバンドの破損、そして最後にはサイレンサー自体が破損する等様々なトラブルを乗り越えつつもゴール。総合16位・X-フォーミュラクラスで優勝という栄光を手にすることが出来た。鎌田は全日本選手権でもヨシムラ隼を幾度もクラス優勝に導き、結果X-フォーミュラクラスシリーズチャンピオンを獲得することとなった。

 

2000s

2000

2000年レースの歴史写真悲しい事故が起きた。2年目の隼を駆って鈴鹿をテストしていた小倉直人が転倒。帰らぬ人となってしまった。急きょ全日本を走ることとなった出口修は、小倉選手の分までと力走を重ね、何度もヨシムラ隼をクラス優勝へ導いた。鈴鹿8時間耐久レースは、更に熟成の進んだマシンと出口修/ショーン・ジャイルスの組み合わせにより底力を発揮。8時間を順当に走り抜き、総合6位・X-フォーミュラ2連覇という好成績を残した。

2000年レースの歴史写真全日本選手権後半戦直前になって、出口が8耐での走行により手を骨折していることが判明。全日本を欠場することとなったが、それでも全日本選手権X-フォーミュラクラスではイエローコーンに続くシリーズ2位を奪取した。この2000年を最後に、ヨシムラ隼はレースの舞台から降りることとなった。しかしながらこのマシンは、スタッフの記憶に色々な意味で残るマシンとなった。

 

2001

2001年レースの歴史写真X-フォーミュラクラス参戦3年目となるヨシムラは、2001年度から隼に代えて新たなマシンをレースに投入した。スズキから新発売となったGSX-R1000をベースに、ヨシムラ独自のノウハウを注ぎ込んだマシン、ヨシムラトルネードS-1である。重量は160キロ台、バンク角も十分に取れる等、隼X-フォーミュラで戦った昨年までよりも戦闘力が格段にアップした。事実、レース直前の鈴鹿テストでは、ほとんどノーマル然とした状態でありながら、隼X-フォーミュラが叩き出したタイムをあっさりと更新してしまうほどの底力を持っていた。

8耐までの前半戦は、開発と平行しながらの戦いでありながらも戦闘力をアップさせながらクラス優勝争いをくりひろげた。そして万全の体制で臨んだ8耐であったが、決勝スタート2周目のスプーンコーナーで痛恨の転倒。S-1でのクラス3連覇は残念ながら達成することが出来なかった。

 

2002

2002年レースの歴史写真全日本選手権のカテゴリーが大幅に変更となった。今までX-フォーミュラクラスで参戦していたヨシムラは、2002年度からクラスをプロトタイプクラスにスイッチ。マシンもGSX-R1000を最大に進化させたS1-Rを投入して勝利を目指した。ライダーには97年までヨシムラで走り、昨年まではカワサキに在籍していた芹沢太麻樹を起用。このクラスは賞点外となるが、改造無制限ということもあり、ヨシムラを含めた各チームの究極のマシンが戦いを繰り広げることとなった。

8耐もプロトタイプクラスでの参戦をしたヨシムラは、決勝でスタートに失敗するも徐々に順位を上げ、6位のポジションをキープ。ところが5時間が過ぎようとしていた第2コーナーで、第2ライダーの武石伸也が痛恨の転倒。ピットにもどったがマシンのダメージが予想以上にひどく、リタイヤとなってしまった。

この年でプロトタイプクラスは廃止となり、2003年からJSBクラスがトップクラス。ヨシムラも参戦クラスをJSBに変更し、全日本タイトルを狙うこととなった。

 

2003

2003年レースの歴史写真鈴鹿8時間耐久レース リタイア

ヨシムラは全日本ロードレースと同様のレギュレーション、ジャパンスーパーバイク1000クラス(JSB)にて参戦。

公式練習からセットアップを順調に進め、公式計時予選では、渡辺が2番手につける2分07秒540をマーク。スペシャルステージでは、加賀山が2分07秒655をマークし、FCCに次いで2番手のタイムで順調に予選を終える。

決勝当日、ウォームアップランでも好調を維持し、万全の体制で決勝を迎えた。11時30分、決勝スタート。2番手でスタートした渡辺はまずまずの順位でオープニングラップを周回。しかし、2週目の第一コーナーで故障車の吹いたオイルに乗り、トップグループの数台が転倒。ヨシムラも転倒リタイアとなる。

2003年レースの歴史写真全日本ロードレース選手権

2003年全日本ロードレース選手権に、ヨシムラは’02年チームスズキでSBクラスチャンピオンを獲得した渡辺篤を擁し、必勝体制でJSBクラスに参戦する。マシンはブランニューとなった新型GSX-R1000JSB仕様は、事前のテストの段階からそのただならぬポテンシャルを見せていた。

第1戦 鈴鹿
渡辺は好スタートで2番手につけるが、中盤は普段のペースを取り戻せず、5位でチェッカーフラッグ。ヨシムラとしては不本意な結果に終わったが、ストレートでのスピードがクラスでもずば抜けて速い結果が出ており、渡辺は充分なヨシムラGSX-R1000の可能性を示した。

2003年レースの歴史写真第3戦 筑波サーキット
ポールポジションからロケットスタートの渡辺は、中盤で2位に下がり、後半でバックマーカーのパスに手間取り、4位でチェッカー。

第4戦 鈴鹿スーパーバイク200km
8耐前哨戦レースとなる全日本第4戦「鈴鹿スーパーバイク200km」では、渡辺はスタートに失敗しながらも、すぐに追い上げを開始し、決勝タイヤで予選タイムに迫る2分8秒679をたたき出す。その後ヨシムラスタッフの練習成果を存分に発揮させたピットワークで前とのタイム差を縮め、渡辺はトップに浮上。一時はトップを奪われるが、トップスピードで抜群に速い渡辺はすぐに抜き返すという展開。最後に激しい追い上げにあうが、0.27秒差で逃げ切り、予定通りにレースを行なった渡辺がヨシムラに久々の優勝をもたらした。

第5戦 ツインリンクもてぎ
渡辺は惜しくもスタートに手間取り6番手あたりまで順位を下げてしまった。すかさず激しい追い上げを開始して3周目に2番手に浮上。しかし序盤での追い上げでタイヤを消耗させてしまいトップに追いつくことができず、結局このままゴール。2位でレースを終えることとなった。

2003年レースの歴史写真第6戦 オートポリス
午前中から気温は30度を優に越え、路面温度も50度近いコンディション。渡辺はハードコンパウンドのタイヤをチョイスして決勝に臨む。渡辺は4番手でトップの様子をうかがう。暑さのため、トップグループのペースが上がらぬ中で、渡辺は上位3台よりも0.3秒早いペースで周回を重ね、トップに立つチャンスをうかがうが、クラッチトラブルが発生しペースダウンを余儀なくされ、惜しくも5位でレースを終える。

第7戦 SUGOスーパーバイク
ポールポジションから渡辺は好スタートを決め、トップグループを形成するものの、ラストスパートで徐々に離され、3位でレースを終える。

第8戦 TIスーパーバイク
序盤は集団の中での走行を強いられた渡辺は、11周目に3番手に浮上する。前を走るホンダ辻村選手を追うが届かず、結果3位でレースを終える。

ヨシムラSUZUKI GP-1 Daximレーシングチームはシリーズランキング2位という成績で今シーズンを終了する。

 

2004

2004年レースの歴史写真鈴鹿8時間耐久レース 2位

2004年で50周年を迎えるヨシムラは、必勝態勢で鈴鹿8耐のスーパーバイククラス(SB)に参戦。

公式計時予選では、渡辺篤、加賀山就臣ともに好タイムをマークし、2番手につける。翌日のスペシャルステージでは、加賀山が2分10秒551。渡辺もアグレッシブな走りで2分10秒275のタイムをマーク。4番手で決勝のスタートを迎えることとなる。

決勝のスタートでは渡辺が大きく出遅れてしまうが、気迫の追い上げを見せ、周回を重ねる毎にポジションをアップ。トップとの差を縮めるが、クラッシュの際にコースインしたセーフティカーの位置で、トップを走るチームセブンスターホンダに差を広げられてしまう。ヨシムラは1回目のピットインの頃には2番手に浮上し、あとは終始そのポジションをキープ。トップを追いかけるレース展開。
終盤までチームセブンスターホンダを追うものの、残り1時間のところで、ガソリンタンク前側のステイに障害が発生。ペースダウンを強いられ、2位のままチェッカーフラッグ。ヨシムラは2位入賞で16年ぶりの表彰台となった。

2004年レースの歴史写真全日本ロードレース選手権

今年は、HONDA・YAMAHA・KAWASAKIが新型機種となり、打倒GSX-Rを目指して熾烈なレース展開が予想される。 2004年のヨシムラはスポンサーの変更に伴いチーム名が「ヨシムラスズキJOMO with SRIXON」となる。ライダーは、昨年同様スズキワークス契約、渡辺篤。今年で50周年の節目を飾るべく熟成を重ね更にパワーUPしたGSX-R1000で敵を迎え撃つ。

第1戦 鈴鹿
舞台となった三重県・鈴鹿サーキットは、今年から、ヘアピンから200Rの間に二輪専用のシケインが設置され、レースへの影響が注目されていた。
ポールポジションからスタートした渡辺が絶妙のタイミングでホールショットを奪い、切れのある走りでレースをリードする。更にペースを上げ、各コーナースライド走行でブラックマークを路面につけながら激しい走りで後続を引き離しにかかるが、10周目の新シケイン立ち上がりでハイサイドに遭い痛恨の転倒! 悔しいリタイアとなる。

第2戦 九州大会
ややスタートをミスした渡辺は6番手で追い上げをはかるもののペースが上がらず、5番手でフィニッシュする。

2004年レースの歴史写真第3戦 筑波大会
霧雨が朝から降り続く寒い日となり、全てのチームがサイティングラップの後でも様々なタイプのタイヤをコース上のマシンの脇にぎりぎりまで用意し、対応に騒然とする。結局ヨシムラ渡辺は前後レインタイヤを選択。渡辺は2周目にトップに立つと、後続を引き離しにかかった。序盤はスリック/カットスリックを装着したチームはどんどん順位を落としてった。しかしレース中盤には雨も上がり走行ラインが乾き始めると、スリックタイヤを装着したチームのタイムが急激に上がり、一時は2位以下を離していた渡辺は、ドライ路面で一気にレインタイヤが消耗。結果ヨシムラ渡辺は4位でレースを終える。

2004年レースの歴史写真鈴鹿300km耐久ロードレース

昨年までは全日本選手権として行われていた鈴鹿200kmが、今年から鈴鹿300kmとして単独主催となった。ライダーは2人可能、しかもル・マン式スタートを採用。ライダー交代、給油が行われるとあって、鈴鹿200kmの時代よりも更に鈴鹿8時間耐久レースの前哨戦という雰囲気が強まった。8耐前のデータ取りをするには大変重要なレースとなる。
渡辺はややスタートで出遅れるものの、22周目には3番手に上がる。
1時間が経過したところで渡辺はタイヤ交換と給油の為にピットイン。ピット作業に定評が有るヨシムラは、素早いピットワークをすませてマシンを送り出す。渡辺もわずかな時間の間に水分補給を行なって再びコースに飛び出していく。このピット作業でトップとの差をつめることに成功し、渡辺は先行する2台との差を詰めるべく後半の走行を順調にこなしていく。
しかし、30度近くまで上がった気温は、ライダー交代無しで走行する渡辺の体力を確実に奪い、2人交代で走るトップのホンダの井筒選手にじりじりと差を拡げられてしまう。後半には車体のトラブルを抱えた渡辺であったが、それでもバックマーカーをかわしながら1周2分13~14秒台のペースで必死にマシンを操って52周を走りきりチェッカー。ヨシムラは結果3位で表彰台に立つ。

第4戦 もてぎ大会
全日本選手権としては折り返しとなる第4戦もてぎ大会。8耐前の最後の全日本選手権ということもあり、重要なレースとなる。
渡辺は巧くスタートを決めたが1コーナーの混乱から8番手まで落とすが、順位を1つ1つ上げ3位の山口選手を追いかける。その差は徐々に詰まっていき、1秒近くまで差を詰めるものの、バックマーカーが出現し、うまく差を詰めていけず、惜しくもそのままチェッカー。レースでは前回の鈴鹿300kmに続く、そして全日本では今期初となる3位で表彰台を獲得。ポイントランキングを5位に上げて前半戦を終了する。

2004年レースの歴史写真第5戦 SUGO大会
午前中のウォームアップで、渡辺は終了寸前にマシントラブルが発生。白煙を噴きながら1コーナー手前でマシンを止め、急遽このレースウィークに初めて乗るTカーで決勝を走ることとなる。
決勝レーススタートでは、渡辺はすばらしいスタートでホールショットを奪うが、徐々に順位を落とし4番手へダウンしてしまう。3位の柳川選手に徐々に迫るものの12周目、馬の背で痛恨の転倒!残念ながらリタイヤとなる。レースはホンダの1-2-3という、ヨシムラとしても悔しい結果となった。

第6戦 鈴鹿大会
渡辺はすばらしいダッシュを見せてホールショットを奪うが、どうしてもタイムが上がらず3周目には5番手に落ちる。トップグループが2分10秒台で周回するなか、必死で追う渡辺は11秒から12秒での走行と、徐々に先頭グループに離されてしまう苦しいレースとなるが、なんとか5位でフィニッシュ。

第7戦 TI大会
予選3位の渡辺は絶妙なスタートダッシュを決めてホールショットを奪い、レースをリードしていく。しかし徐々に順位を落とし、結果7位でフィニッシュ。最終的にシリーズランキング6位で今シーズンを終えることとなった。

 

2005

2005年レースの歴史写真鈴鹿8時間耐久レース 10位

今年は優勝を目指すべく、必勝体制でレースに臨むこととなった。ライダーは渡辺篤、加賀山就臣が昨年に続きエントリー。

29日公式計時予選では、午前/午後の予選を通し、加賀山が総合で4番手のタイムをマーク。土曜日のスペシャルステージへと駒を進めた。スペシャルステージでは、渡辺が2分09秒526を出し、まずは3番手につけ、ジャンプアップステージの加賀山が2分08秒台をマーク。総合4番手で決勝をスタートすることになった。

決勝のスタートライダーは加賀山が担当。加賀山はオープニングラップを2番手で終了。そのまま加賀山はトップと17秒差でライダー交代と燃料給油の為にピットインを行った。ところがピットインしたマシンのサイレンサーから白煙が上がった為、急遽ピットクルーはサイレンサーを交換してから渡辺をコース上へ送りだした。再びコースインした時、14番手付近にまで順位を落としてしまったが、ここから怒濤の追い上げを開始することとなる。

2度目の走行が雨スタートとなった加賀山は、雨が上がるのを期待してスリックタイヤのまま走行を続けポジションを6番手あたりまで上げた。しかし、雨足が強まった為ピットインしてレインタイヤを装着。そこからまた約1時間近くの激走を果たし、3番手まで順位を上げて渡辺とバトンタッチした。しかし、その渡辺が雨の影響でまさかの転倒。マシンは自走出来る状態であったため渡辺は自力でピットに戻ってきた。ピットクルーはすぐさまマシンの修復に取りかかり10分程度でマシンをコース上に送りだした。

いよいよゴールまで2時間を切った鈴鹿8時間耐久ロードレース。ヨシムラスズキJOMO with SRIXONレーシングチームは転倒後18位までポジションを落としたものの、必死の力走で上を目指し、午後7時30分ついにゴール。ヨシムラスズキJOMO with SRIXONレーシングチームは10位で、チェッカーを受けた。

2005年レースの歴史写真全日本ロードレース選手権

2005年ヨシムラスズキJOMO with SRIXONレーシングチームは今年から新型GSX-R1000を投入。今シーズンのシリーズチャンピオンを奪取することを目標としてオフシーズンに走り込みを重ね、マシンを仕上げてきた。

第1戦 美祢大会
予選、渡辺はマシンのパフォーマンスを充分に発揮出来ず、9番手で決勝に臨むこととなった。決勝レース渡辺は序盤ペースが上がらずに走行。レース中盤、4位まで順位をあげたが霧状の雨が大粒となってレースは赤旗中断となってしまう。レースはこのまま終了。渡辺は4位でレースを終えることとなった。

2005年レースの歴史写真第2戦 鈴鹿大会(JSBのみ)
前戦では思ったような結果を残せなかった05年ニューGSX-R1000であったが、インターバル中のテストで急ピッチにマシンを仕上げ、期待させるレースとなった。
決勝レース渡辺は3番手からのスタート。渡辺は好スタートを決め、ホンダ辻村選手に次いで2番手で1コーナーへ進入。しかし後半、突然電気系のトラブルに見舞われスローダウン。7位でゴールとなった。

第3戦 筑波大会
渡辺にとって筑波サーキットは元ホームコースでもあり、得意なコースでもある。渡辺はスタートを決めて5~6番手で1コーナーに侵入しようとしたが、後方のホンダ森脇選手、出口選手の転倒に巻き込まれる形で転倒。渡辺はこの転倒で肩を負傷しながらもすぐバイクを起こして再スタートを試みるが、車両の損傷がひどく断念。

第4戦 オートポリス大会
全日本選手権もこの九州大会で第4戦目、鈴鹿8耐をはさんで折り返しのレースとなる。初夏を思わせる陽気の中、九州大会が始まった。
事前にオートポリスでのテストを繰り返して行っていた渡辺は、1分51秒268というコースレコードでポールポジションを獲得した。ポールポジションからスタートした渡辺はヤマハ中冨選手、カワサキ柳川選手に続く3番手につけ、その後2周目の1コーナーで中冨選手をかわし、3周目の1コーナーで前を行く柳川選手のインを突くが抜くまでには至らない。その直後の第2ヘアピンでもう一度柳川選手に仕掛けたが、スライドしてオーバーランしてしまう。その際にパイロンに接触してしまい脱出に時間がかかり、33位まで大きくポジションを落としてしまう。そこから怒濤の追い上げを見せ、渡辺は11位でレースを終えることとなった。

2005年レースの歴史写真鈴鹿300km耐久ロードレース

このレースは全日本シリーズとは別格式で行われ、鈴鹿8耐の前哨戦として位置づけられており、ヨシムラは、このレースを8耐への足がかりとする重要なレースとして挑んだ。
マシンは全日本に参戦のJSBマシンをベースに開発した、国際格式のスーパーバイクで参戦。

決勝レース渡辺はスタートに若干手間取り、中段のグループに飲み込まれ、オープニングラップを19番手付近で終える。ここから渡辺は怒濤の追い上げで8周目に7番手に、そして14周目には5番手に浮上した。そのまま25周を迎え、ライダー交代の時間を迎えた。ピットイン後タイヤ交換、ガソリン給油、そしてライダーを渡辺から加賀山に代えて15秒という素晴らしいタイムでピットクルーはコース上へ送りだした。コースに復帰した時は、ピット作業の早さから、ポジションをひとつ上げて4番手となっていた。

2005年レースの歴史写真39周目に200Rで起きた転倒の処理の為にセーフティーカーが入り、隊列をコントロールする。この段階でトップと加賀山の差は約2秒にまで縮まった。その頃、路面温度もレース開始時点よりも10度近く低下していた為、加賀山は隊列走行によるタイヤの温度低下を最小限に食い止めるためにスラロームを繰り返して再スタートに備えていた。
そして10分後、残り11周のスプリントレースがスタート。常に前の状況を伺っていた加賀山は再スタートの瞬間に3番手の辻村選手をパス。44周目の1コーナーで2番手の徳留選手をかわす。その周のストレートで宇川選手の背後にぴたりと付いた加賀山は満を持してシケインの入口で宇川選手のインを刺し、一気にトップに踊りでた。そのまま宇川選手を抑え込んだ加賀山はトップでチェッカー。ヨシムラにとって2003年の鈴鹿200km以来の勝利を呼び込んだ。

2005年レースの歴史写真第5戦 SUGO大会
渡辺は3番手からのスタートとなったがややミスをして出遅れ、オープニングラップを7番手で終了する。渡辺は7位争いの集団を抜け出して単独7番手に浮上するものの、6番手に約10秒の差を開けられ、結果7番手でレースを終えることとなった。

第6戦 鈴鹿大会
全日本選手権ロードレースも終盤を迎えヨシムラスズキJOMO with SRIXONレーシングチームは、渡辺篤に加え、スズキMotoGPチームのテストライダー、秋吉耕佑がスポット参戦。
決勝レースフロントローに2台のヨシムラGSX-Rが並ぶというスターティンググリッドとなった。渡辺が絶妙なスタートダッシュを決めてホールショットを、ポールポジションの秋吉も2番手につけ、ヨシムラの2台がオープニングラップを1-2という絶好の体制で進行。
ところが、秋吉のマシンのリアブレーキにトラブル発生。リアブレーキが使えないという状況となりペースを上げることができない。終盤にペースを上げることができなかった渡辺が6位、リアブレーキが使えない状態のまま走り切った秋吉が8位でレースを終えた。

2005年レースの歴史写真第7戦 岡山大会
スタートで完璧なダッシュを見せてホールショットを奪った秋吉はオープニングラップから果敢に攻める。しかし、タイヤの消耗が激しく序盤に徐々にペースを落としてしまう。一方の渡辺はオープニングラップを5番手で終えたが、徐々にペースを上げ5周目に3番手に浮上。そのまま3位入賞を果たし、今季初の表彰台を獲得した。序盤ハイペースでレースをリードした秋吉は、後半消耗し切ったタイヤをコントロールさせ6位入賞を果たした。

第8戦 もてぎ大会
鈴鹿ラウンドに続いて2台のヨシムラGSX-Rがフロントローに並ぶ決勝スタートとなった。
渡辺が抜群のスタートを見せて4番手からホールショットを奪い、オープニングラップを渡辺-秋吉の1-2で終了。秋吉は、3周目に渡辺をかわしてトップに浮上し、2番手以下を引き離すべくペースアップ。一方渡辺は、9周目に5番手まで順位をさげてしまう。
スタートに出遅れたホンダ伊藤選手が終盤2番手に上がると、1分51秒台のハイペースで逃げる秋吉を猛追。しかし秋吉も最後のラストスパートで伊藤選手を突き放し、秋吉は最後までトップを守りゴールラインを通過。秋吉は復帰後3戦目で全日本選手権初優勝。ヨシムラスズキJOMO with SRIXONレーシングチームにも今シーズン初優勝をもたらした。終盤カワサキの柳川選手と順位争いを行った渡辺は6位でゴール。ランキング6位で今シーズンを終了した。
2005年レースの歴史写真2005年レースの歴史写真2005年レースの歴史写真

 

2006s

2006

全日本ロードレース選手権

2006年ヨシムラスズキwithJOMOレーシングチームは全日本ロードレース選手権シリーズJSB1000と鈴鹿8時間耐久ロードレース選手権、そして新たにST600クラスに参戦。ライダーはヨシムラ4年目となる渡辺篤と2005年の第6戦より参戦を開始した秋吉耕佑がエントリー。タイヤもブリヂストンとなり、JSB1000、ST600クラスでのダブルタイトルを奪取するべく万全の体制で2006年の全日本ロードレース選手権シリーズに臨む事となった。

2006年レースの歴史写真第1戦 もてぎ
JSB1000:
開幕戦から渡辺、秋吉ともに絶好調。渡辺がポールポジションを獲得すると秋吉もフロントロー3番手を獲得した。 決勝レース。渡辺がホールショットを奪うと、これに秋吉も続きオープニングラップをヨシムラの1-2で終了。その後も渡辺、秋吉は周回を重ねるごとに後続を引き離していたが、12周目降雨の為レースがまさかの赤旗中断となる。中断後、レースは8周の超スプリントレースで争われた。再スタートで渡辺、秋吉ともにスタートで出遅れてしまうが渡辺は徐々に追い上げをみせ3位でフィニッシュとなった。一方の秋吉は5周目にオーバーランしてしまい16位でフィニッシュとなった。
ST600:
渡辺はST600クラス初参戦ながら、公式予選で堂々の2番手のタイムをマークした。 決勝レース序盤こそ6番手付近での我慢の走行であったが、最終的には4番手まで追い上げをみせ4位でチェッカーを受けた。

2006年レースの歴史写真第2戦 鈴鹿2&4
JSB1000:
金曜日のフリー走行から渡辺、秋吉ともに前戦の勢いそのままに好調さをアピール。3番手スタートの渡辺がホールショットを奪うとポールポジションからスタートの秋吉も2番手につけ、オープニングラップをヨシムラの1-2で終える。しかし、2周目のS字コーナーで秋吉が前日の雨よりしみだした水に乗りまさかの転倒。その後3台が同じ場所で転倒してしまい、レースは赤旗中断となってしまった。
レースが再スタートすると再び渡辺がホールショットを奪う。6周目に伊藤(ホンダ)にかわされ2番手に順位を下げるが、8周目に再びトップに返り咲く。渡辺は2番手以降を引き離しにかかるが伊藤が離れずにテールtoノーズ状態。12周目に渡辺は伊藤にかわされてしまい、そのまま2位でフィニッシュ。秋吉はスペアマシンにもかかわらず4位でチェッカーを受けた。

2006年レースの歴史写真2006年レースの歴史写真第3戦 筑波大会
JSB1000:
朝から雨が降り出し気温も上がらない中、公式予選で秋吉が2番手、渡辺が3番手のタイムを記録して開幕戦から3戦続けてヨシムラはフロントローを獲得した。
決勝は秋吉がホールショットを奪うとそのままレースをリードして行く展開。14周目まで秋吉はトップを独走していたがまさかのマシントラブルが発生。秋吉はトラブルを抱えたまま走行を続けたが、19周目ついに山口(ホンダ)にトップを明け渡してしまう。一方の渡辺はスタートこそ4番手と出遅れたが、周回を重ねるごとに前との差を確実に詰めていく。そして21周目の最終コーナーで山口をかわしてトップを奪取。23周目以降渡辺は後方から追い上げをみせた伊藤(ホンダ)とのデッドヒートを制し、見事今シーズン初優勝を飾った。秋吉はマシントラブルを抱えながらも4位でフィニッシュとなった。
ST600:
渡辺はST600クラスでも好調を維持。元ホームコースの筑波でST600クラス初のポールポジションを獲得した。
決勝レース渡辺は2番手スタートの安田(ホンダ)にホールショットを奪われ、4周目までに安田との差は1秒以上に広がってしまう。しかし、渡辺も意地をみせじりじりと安田に迫る。迎えた10周目、ついに渡辺は安田を射程距離に捕え、16周目にトップに浮上。そして渡辺は安田の追い上げを押さえ込み、ST600クラス初優勝を飾った。

この筑波大会で渡辺は見事ダブルウィンを飾り、ヨシムラに17年振りの快挙をもたらした。

第4戦 オートポリス大会
JSB1000:
全日本ロードレース選手権シリーズも中盤戦となる第4戦が、梅雨入りしたばかりの九州オートポリスで開幕。コンディションに恵まれない中、秋吉が今期2度目のポールポジションを獲得。また渡辺は公式予選で5番手のタイムをマークした。
決勝レースはドライ。ホールショットを中須賀(ヤマハ)が獲得するとオープニングラップを中須賀、渡辺、秋吉の順で終える。直後の2周目、渡辺、秋吉共に中須賀をかわしそれぞれポジションアップ。そして4周に秋吉が渡辺をかわしレースをリードしていった。しかし、その後方では3番手を走行の中須賀をかわした伊藤が渡辺に接近。渡辺が6周目に伊藤にかわされると、続いて秋吉との差もじわりじわりと詰め始めた。そして10周目、秋吉は伊藤にかわされてしまうが、11周目に抜き返しトップに再浮上。14周目トップ争いに更に柳川(カワサキ)が加わりデッドヒートを繰り広げた。14周目のヘアピンで秋吉は伊藤にかわされると、17周目には柳川にもかわされポジションを3番手に下げてしまう。秋吉はその後追い上げを見せるが3位でチェッカー。一方の渡辺は6位でチェッカーを受けた。
ST600:
公式予選コンディションに悩まされた渡辺だが、前戦に続きポールポジションを獲得し好調を維持。 前戦と同じくホールショットを安田(ホンダ)に奪われるとオープニングラップを渡辺は2番手で終える。この時点で安田との差は1秒以上開いてしまったが2周目以降渡辺は徐々にペースを上げ、4周目に安田をかわしトップに浮上。しかし渡辺は5周目にオーバーランしてしまい、その間に3番手に後退、上位を追い上げるもそのまま3番手でチェッカーとなった。

2006年レースの歴史写真鈴鹿300km耐久ロードレース

7月末開催の8時間耐久ロードレースの前哨戦に位置づけられる鈴鹿300km耐久ロードレースがついに開幕。ライダーは全日本ロードレース選手権で好調の渡辺と、テストで負傷した秋吉に代わり青木宣篤がエントリー。ヨシムラは昨年の300km耐久チャンピオンとして万全の状態でレースに臨むこととなった。
決勝レース7番手からのスタートとなったヨシムラは第1ライダーに渡辺を起用。ウェットコンディションの中レースがスタートすると渡辺は周回を重ねる度に着実にポジションをひとつずつ上げていった。
2006年レースの歴史写真渡辺は6周目に3位、9周目には2位となり2分24秒台でトップを走る小西(ホンダ)に2分22~23秒台のタイムで追走していった。15周目、ホームストレートで渡辺は小西のテールを捕え、直後のS字コーナーでトップを奪取。しかし、渡辺がトップに立った頃には路面コンディションがドライとなっていた。その為レインを装着していた渡辺のタイヤは消耗が激しく、16周目を終えてピットインした。タイヤ交換&給油を終えて渡辺がコースに戻った時は、9位までポジションダウン。しかし渡辺はタイヤをスリックに履き替えた事で大幅にラップタイムを上げる。加えて上位陣が次々とピットインした関係もあり23周目には2位までポジションを上げていた。翌24周目にはトップの小西がピットインした為、渡辺はトップに返り咲き再びレースをリードしていった。そして渡辺は41周目を終えて2位との差を約46秒つけて2回目のピットインを果たす。
2006年レースの歴史写真42周目からライダーは青木にチェンジ。その青木はトップのままコースインをするが後続の手島(ホンダ)、伊藤(ホンダ)にかわされ3位となってしまう。45周目手島がピットインしたことで青木は2位での走行となる。青木は46周目に高橋(ホンダ)に抜かれるが、この2位争いに後方から安田(ホンダ)が加わる。3台は0.8秒圏内での超接戦バトルを展開。51周目、トップの伊藤がガス欠リタイアという波乱が起きる。終盤、青木は安田を抜き返そうとするが僅か届かず3位でのチェッカーとなった。

第5戦 菅生大会
JSB1000:
秋吉が1分28秒327で今期3度目のポールポジションを獲得。一方の渡辺は4番グリッドを獲得した。
ポールポジションからのスタートとなった秋吉だが、オープニングラップは辻村(ホンダ)、渡辺、伊藤(ホンダ)、秋吉の順で終了。しかし秋吉は徐々にペースを上げ始め3周目には2番手に、更に5周目にはこのレースのファステストラップを記録しトップの辻村に迫る。しかし、レース終盤に伊藤、渡辺にかわされてしまい4位でチェッカーとなった。一方の渡辺は序盤から4、5番手の走行となってしまう。しかし渡辺は23周目から怒濤の追い上げを見せ最終的には3位でゴールした。
ST600:
決勝レース3番グリッドからスタートした渡辺はオープニングラップを6番手で終える。その後なかなかペースが上がらず我慢のレースが続いた。10周目に前を走行する新垣(ヤマハ)が転倒、残り3周となったところで今度はトップの辻村が転倒。渡辺は我慢のレースで4番手でチェッカーを受けた。

2006年レースの歴史写真第6戦 岡山国際大会
JSB1000:
今年の全日本ロードレース選手権では珍しい快晴で第6戦を迎えた。コンディションに恵まれた公式予選で、渡辺が今期2度目のポールポジションを、秋吉が2番グリッドを獲得した。
決勝レース秋吉がホールショットを奪うもののオープニングラップは柳川(カワサキ)、伊藤(ホンダ)、秋吉、渡辺の順。秋吉は6周目までに前を走る柳川、伊藤をかわしトップに浮上。しかし、トップを快走する秋吉に12周目マシントラブルが襲いかかる。後退を余儀なくされた秋吉は16周目、無念のリタイアとなってしまった。一方の渡辺はレース序盤の遅れを挽回すべく20周目には3番手までポジションアップ。そして21周目には2番手の柳川をかわしトップの伊藤を追うも届かず、2位でチェッカーを受けた。
ST600:
決勝レース2番手からのスタートとなった渡辺はスタートで若干手間取り、オープニングラップを酒井、安田(ホンダ)、佐藤(ヤマハ)、渡辺の順で終了。4番手の渡辺はポジションを上げるべく11周目のダブルヘアピンで3番手の佐藤に迫るが抜くまでに至らない。12周目渡辺は再び佐藤にダブルヘアピンで仕掛ける。2個目のヘアピンで渡辺は佐藤をかわし2位の安田を追うもそのままフィニッシュ。

2006年レースの歴史写真2006年レースの歴史写真第7戦 鈴鹿大会(第38回 MFJグランプリ)
JSB1000:
ついに2006年度の全日本ロードレース選手権シリーズ最終戦を迎えた。公式予選、渡辺がコースレコード更新となる2分08秒026でポールポジションを獲得。一方の秋吉も2番手のタイムを記録。また、この最終戦にはヨシムラからのエンジンサポートでYK SUZUKI Bright Logicから加賀山就臣がスポット参戦を果たし、5番手のタイムを記録した。
決勝レースオープニングラップは加賀山、秋吉、伊藤(ホンダ)、渡辺の順でコントロールラインを通過。ところが4周目、渡辺はスタート時からマシンにトラブルを抱えており、無念のリタイアとなってしまった。一方の秋吉は3周目に加賀山をかわすと2分8~9秒台のハイペースでレースをリードしていった。しかし、秋吉は13周目に加賀山にかわされると、今度は伊藤が14周目の1コーナーの入口で秋吉、加賀山を続けてかわしトップに浮上。しかし秋吉も離れず14周目以降トップ争いは更に過熱。16周目には加賀山が秋吉をS時コーナーで、伊藤をシケインでかわしトップに再浮上してレースを再びリード。そして迎えた最終周、3番手を走行の秋吉が伊藤を1コーナでかわし2番手にポジションアップ。更に秋吉は加賀山のテールを捕え、シケインの入口でパス。しかし直後のシケインの切り換えしで差し換えされ加賀山がトップでチェッカー。秋吉は0.1秒の僅差で2位でフィニッシュした。
ST600:
公式予選、渡辺は4番手のタイムをマークし全戦でフロントローを獲得した。
決勝レース渡辺は好スタートを見せオープニングラップを安田(ホンダ)、渡辺、大崎の順で終える。渡辺は3周目以降なかなかペースを上げられず徐々に後退。結果6番手まで順位を下げてのチェッカーとなった。

 

2007s

2007

鈴鹿8時間耐久レース:優勝

<公式予選>
金曜の公式予選から、#34号車の加賀山・秋吉組が好調さをアピールし、計時予選で3番手のタイムをマーク。また#12渡辺・酒井組も安定した走行で計時予選で7番手のタイムマークし、それぞれ土曜日に行なわれるトップ10トライアルに進出することとなった。

2007年レースの歴史写真<トップ10トライアル>
土曜日に行われたトップ10トライアル。渡辺・酒井組の#12号車は10番手グリッドから、加賀山・秋吉組は、加賀山が3番グリッドを獲得。ポールポジションにはC・チェカ・岡田組(ホンダ)が2分07秒587を記録してTEAM HRC #33が納まった。

<決勝レース>
決勝レースは午前11時30分にスタート。3番グリッドからスタートした#34号車の加賀山がホールショットを奪いレースをリード。2番手以降には、清成(ホンダ)、阿部(ヤマハ)が続く展開。レースはまず、加賀山がオープニングラップから大きく後続を引き離し、1周目に2番手の清成に1秒4もの大差をつけてトップを快走。しかし10周目を迎える頃には加賀山の背後に清成が急接近。しかし、10周目以降バックマーカーが出はじめ加賀山は上手くバックマーカーを利用して清成との差を再び広げ始めた。

2007年レースの歴史写真25周の走行を終えて加賀山は秋吉へライダー交代。秋吉はハイペースで周回を重ね、清成から代わったJ・トーズランドに15秒ほどのマージンをキープ。29周目にトーズランドが転倒してしまいリタイヤとなると、秋吉は2番手となった手島(ホンダ)との差は約30秒となる。

一方の#12号車の渡辺は12番手でオープニングラップを周回するが徐々にペースを上げ、一つ一つ確実に順位を上げての走行。渡辺は18周目に5番手、23周目に4番手までポジションを上げ、25周を走り酒井にチェンジ。酒井も渡辺と同じくハイペースで周回して29周目に3番手に浮上すると、安定した走行でそのポジションをキープする。

2007年レースの歴史写真スタートから約2時間、秋吉から加賀山に2回目のライダー交代をする頃には5位以下をすべて周回遅れとし、加賀山は2位以下に1分以上の差をつけての走行となった。その後もトップを走る加賀山/秋吉がハイペースをキープ、残り1時間の時点で、加賀山が2番手の岡田をパス。これで#34号車は全車周回遅れにして、レース開始から一度もトップを譲ることなく、完璧なレース運びで216周を走りきって優勝。ヨシムラとしては’78年、’80年に続く27年振り3回目の優勝を果たすこととなった。

また#12号車はレース中盤、岡田/チェカ組と3位争いとなり、最終的には215周を走りきり4位でのチェッカーとなった。

2007年レースの歴史写真鈴鹿300km耐久ロードレース

<公式予選>
公式予選はA組/B組へ分けて午前、午後の2セッションで争われる事となった。渡辺/酒井ペア、秋吉/加賀山ペアはB組でのタイムアタックとなった。
公式予選1回目、A組はドライコンディションの中スタート。トップタイムは中須賀(ヤマハ)の2分09秒102となった。ところがA組の予選が終了する頃に天候が急変。B組の予選は降雨の中スタートとなった為、中須賀のトップタイムを更新出来ずに1回目の予選が終了。
公式予選2回目。A組はウェットコンディションの為、中須賀のトップタイムを更新できずに終了。A組の予選が終わる頃、急速に天候が回復し、B組の予選がスタートした。時間の経過と共に路面コンディションが回復そして、残り約10分となったところで加賀山から秋吉へ、そしてタイヤを新品のスリックへと交換。秋吉はところどころまだ水が路面上に残る中、怒濤の走りで予選最終周、完全に乾いていないコースで驚異の2分08秒645を記録しトップタイムを塗り替えた。決勝レースは秋吉/加賀山ペアがポールポジション、渡辺/酒井ペアが10番手からのスタートする事となった。

2007年レースの歴史写真<決勝レース>
前日2分08秒645のスーパーラップを叩き出しポールポジションからのスタートとなったヨシムラスズキwithJOMOの秋吉は、ホールショットを奪った阿部(ヤマハ)をシケインで抜き去り、トップを走る清成(ホンダ)に次いで2番手でオープニングラップを終了。その後、清成はペースを2分09秒台に上げて後続を引き離しにかかったが、秋吉だけがこのペースについて行きレースは2人の一騎打ちの様相を見せはじめた。
そして10周目のシケインで秋吉が清成のインを刺しトップを奪うが清成も負けじとこの日のファステストラップとなる2分09秒095をマークする走りで猛追。18周目ダンロップコーナーでは清成がアウトから秋吉をかわして再び首位に立った。そしてこの熾烈なトップ争いが続いたままレースは中盤に突入し、両者にピットインの指示が入った25周目。ここで秋吉のマシンがバックストレートでまさかのエンジンストップ。そのままパートナーの加賀山に代わることなくレースを終える結果となった。清成/レイペアはその後も集中力を切らさず走り続け、トップでチェッカーフラッグを受けた。 一方、予選Bグループを2分11秒436の5位で通過し、決勝を10番手からスタートした渡辺/酒井ペアは堅実な走りで順位を上げた結果、波乱のレースを1時間56分33秒030の5位でフィニッシュした。

全日本ロードレース選手権シリーズ

2007年ヨシムラ スズキ with JOMOはヨシムラで5年目を迎える渡辺篤、2006年度ST600クラス最多勝利を挙げた酒井大作がJSB1000クラスよりエントリー。今年こそシリーズタイトルを獲得すべく、チーム一丸万全の体制で2007年シーズンを迎えることとなった。

2007年レースの歴史写真第1戦 もてぎ
<公式予選>
ウェットコンディションの中、全日本初の試みとなるノックアウト方式がJSB1000クラスに採用されての公式予選。最終のセッションまで渡辺、酒井ともに進む事が出来たが、決勝レースは渡辺が2列目6番手、酒井が3列目9番手からのスタートとなった。
<決勝レース>
ホールショットを阿部(ヤマハ)が奪うとオープニングラップは酒井が6番手、渡辺が7番手でコントロールラインを通過。渡辺は7周目以降徐々に追い上げを開始し、8周目に阿部、9周目に中須賀を続けてかわし4番手。渡辺は中盤以降ハイペースで上位3台を追走。15周目に3番手の柳川を、16周目には2番手の森脇をかわし2番手に浮上。そして17周目、渡辺はついに山口をかわしてトップの座を奪取し、2番手に1秒以上の差をつけてトップでチェッカーを受けた。一方の酒井はJSB1000クラス初レースを9番手でフィニッシュした。

第2戦 鈴鹿2&4(JSBのみ)
<公式予選>
公式予選はエントリー台数が多い為、2組に分けて午前、午後の2セッションで争われ、渡辺が2列目5番グリッド、酒井は4列目11番グリッドで決勝レースを迎えることとなった。
2007年レースの歴史写真<決勝レース>
ホールショットを中須賀(ヤマハ)が奪いオープニングラップから2番以降を引き離しレースをリード。渡辺は2位争いを引っ張る形でレースを展開するが、6周目に秋吉に、7周目に徳留(ホンダ)にかわされ4番手に後退。渡辺も8周目に徳留をかわし3番手を奪い返す。しかし、9周目には渡辺はヘアピンで亀谷(ホンダ)にかわされ4番手となるが、シケインで秋吉をかわし3番手に再浮上。12周目、3番手を走行する渡辺のテールに今度は安田(ホンダ)が接近。13周目、渡辺はシケインで安田にかわされ4番手に後退してしまう。
レースも終盤に差し掛かる14周目。トップの中須賀がマシントラブルでリタイアとなり、トップは2番手以降を4秒以上引き離す亀谷。2番手に安田、3番手に渡辺となり、ここから2位争いが更に過熱。16周目1コーナーの進入で渡辺が安田を抜くが、今度は安田に130Rでかわされてしまう。そして迎えたファイナルラップ。渡辺は130Rの手前で安田を捕え2番手を奪い返す。しかし渡辺はシケインの進入でイン側につけていた森脇(ホンダ)と接触してしまい失速。そこへアウト側から行った安田にかわされてしまい、渡辺は3位でチェッカーを受けた。
一方の酒井はレース序盤こそ9番手あたりでの走行となったが、マシンのペースが上がらず11位でフィニッシュとなった。

第3戦 筑波
<公式予選>
渡辺がセカンドロー5番手から、酒井がJSB1000初となるフロントロー3番手で迎えることとなった。また、ポールポジションには56秒140でコースレコードを更に更新させた秋吉が納まった。
<決勝レース>
オープニングラップは阿部、秋吉、渡辺、柳川(カワサキ)、酒井の順でコントロールラインを通過。しかし、4周目に森脇(ホンダ)が転倒してしまい、レースは赤旗中断となってしまった。
レースが再スタートされると、ホールショットを阿部が奪い、秋吉、渡辺と続いて1コーナーに進入するが、後方で再び2台が転倒してしまいレースは再び赤旗中断となってしまう。
レース2、2回目がスタートされると、渡辺は3度目となるスタートでクラッチのフィーリングに異常が発生、スタートで出遅れてしまう。渡辺はオープニングラップを11番手で終えると、4周目と8周目にポジションをひとつ上げ9番手に浮上する。更にポジションを上げるべく走行を続けたが届かず、結果渡辺は9位でのフィニッシュとなった。
一方の酒井は3周目に4番手から3番手に浮上。しかし6周目、酒井は秋吉にかわされ4番手に後退してしまう。更にレース中盤となる16周目、酒井はトップグループのすぐ後ろに付けていたが、少しづつペースが落ち4番手争いから後退。それでも酒井はタイムアップをはかるが、最終的には8位でのフィニッシュとなった。

第4戦 オートポリス
<公式予選>
渡辺が5番手、酒井が4番手のタイムでスーパーポールへのエントリーが決まった。そのスーパーポールでは上位3台がコースレコードを更新するタイムを叩き出した。結果は酒井が3番手、渡辺が5番手のタイムを記録。
2007年レースの歴史写真<決勝レース>
オープニングラップを酒井は3番手で通過。酒井は2周目のホームストレートで秋吉をかわし2番手にポジションアップすると更にハイペースでトップの柳川を追走。そして、酒井は4周目の1コーナーで柳川をかわしトップに浮上するが、ヘアピンで抜き返されてしまう。レース中盤となる10周目、酒井に後続車が接触、転倒は免れたものの、この隙に中須賀にかわされ3番手に後退してしまう。酒井は最後まで追い上げを見せたが、3番手でチェッカーを受けJSBクラス初表彰台を獲得した。
一方の渡辺はオープニングラップを8番手で終えると、2周目には立て続けに大崎(ヤマハ)、安田(ホンダ)をかわし6番手に浮上。渡辺はペースを上げトップグループの真後まで追い上げをみせたが届かず、6位でフィニッシュとなった。

第5戦 スポーツランドSUGO
<公式予選>
予選開始から20分が過ぎた頃、酒井が1分28秒643を記録して暫定トップとなる。一方の渡辺は序盤に4番手のタイムをマークするが最終的には2列目6番グリッドに納まることとなった。暫定トップでアタックを続ける酒井は最終のアタックでコースレコードとなる1分28秒272を叩き出し、酒井はJSB初となるポールポジションを獲得した。
2007年レースの歴史写真<決勝レース>
決勝レースはST600の赤旗中断の影響を受けて予定よりも約1時間遅れてスタートとなった。ホールショットを奪ったのはポールポジションの酒井、2番手には渡辺がつけ最高の形でレースがスタート。しかし直後ST600と同じ1コーナーで多重クラッシュが発生。レースは赤旗中断となってしまった。そして再びスタートをする為にサイティングラップを終えてグリッドにつくが、今度はコース上にオイルが出てしまいレースは中断となってしまった。
コース清掃の影響で17時にレースが再スタート。ここでも酒井がホールショットを奪いレースを引っ張る形となり、2周目以降1分28秒台のハイペースで2番手以降を引き離しにかかる。また渡辺は7番手から追い上げをみせ3周目、5周目、7周目にそれぞれポジションをひとつずつ上げ4番手に浮上。レースは酒井が2番手以降に約3秒の差をつけて独走状態を築き始めた12周目、ハイポイントコーナーで転倒者が現れコース上に車両が残ってしまい再び赤旗中断となってしまった。
2007年レースの歴史写真仕切り直しの第2ヒートのグリッドはそれまでのレースでの順位となり、周回数は10周となった。ここでもホールショットは酒井が奪い、柳川、渡辺と続いて1コーナーに進入。レースは序盤から酒井、柳川、渡辺が後続を引き離す展開。渡辺は3周目の馬の背コーナーで柳川をかわし2番手にポジションアップ、更にトップの酒井のテールを捕える。そして8周目の馬の背コーナーでついに渡辺は酒井をかわしトップに浮上。しかし酒井は渡辺に離される事なく渡辺を追う。しかし渡辺は最後まで酒井を抑え切り、開幕戦以来の今期2勝目を上げた。また2番手でゴールをした酒井は渡辺と僅か0秒180差でチェッカーを受け、ヨシムラにとって18年振りとなる1-2フィニッシュとなった。

第6戦 岡山国際
<公式予選>
A組の第1パートは小雨の降る難しいコンディションで行なわれた。そんな中、渡辺が8番手のタイムをマーク。そして酒井は3番手のタイムをマークしたが、セッション終了間際に転倒。右手の親指、左肩を痛めてしまった。
A組、B組の第1パートが終了し、渡辺、酒井ともにトップクオリファイへの進出を決め、20分の第2パートがスタートした。ドライコンディションで争われたトップクオリファイで渡辺は4番手、酒井は痛みをこらえてタイムアタック。酒井は修復したマシンのフィーリングを確かめながら6番手のタイムをマークし、決勝レースを渡辺、酒井は2列目からのスタートとなった。
2007年レースの歴史写真<決勝レース>
酒井はオープニングラップこそ9番手での走行となったが、2周目に渡辺、大崎(ヤマハ)を、4周目には横江(ヤマハ)を、そして7周目には山口(ホンダ)をかわしす。酒井は昨日の転倒の影響を感じさせない走りでレース序盤の内に5番手までポジションアップ。更に10周目に阿部(ヤマハ)をかわして4番手に浮上。
渡辺はレース序盤こそ7~8番手での走行となったが、7周目に横江をかわすと、そこから怒濤の追い上げを見せる。渡辺は9周目に阿部を、11周目に山口をかわして5番手に浮上すると、13周目には酒井をかわす。4番手に浮上した渡辺は18周目についに3番手の徳留をパス、その直後2番手の柳川(カワサキ)が転倒しリタイアとり渡辺は2番手での走行となる。残り3周となったところで渡辺は中須賀とテールツーノーズとなるが、残り2周となったところで渡辺はバックマーカーの処理で、中須賀との差を広げられてしまう。しかし、渡辺は中須賀をかわすべく激しくプッシュするが中須賀もそれを許さず、渡辺は0.1秒の僅差で2位でチェッカーを受けた。一方の酒井も前日の転倒による痛みをこらえ、レース中盤から追い上げを見せたが表彰台に僅か届かず4位でのチェッカーとなった。

第7戦(最終戦) 鈴鹿(MFJグランプリ)
2007年レースの歴史写真<公式予選>
公式予選1回目。渡辺が7番手、酒井が3番手のタイムでクオリファイの進出を決めた。クオリファイ1~2を渡辺、酒井は危なげなく通過。そしてポールポジションを賭けてクオリファイ3を迎えた。
クオリファイ3は12台のみの出走の為、クリアラップがとれやすくハイレベルな争いが繰り広げられた。開始早々に清成(ホンダ)が2分07秒982を記録すると、中須賀(ヤマハ)が清成のタイムを上回る2分07秒412を記録し暫定トップとなる。更に安田(ホンダ)が2分07秒442を記録して中須賀、清成の間に割って入った。
ここまで渡辺、酒井は様子を見ながらのアタックを続けていたが、最後のアタックで酒井が清成のタイムに迫る走りを見せたが僅か届かず2分07秒983のタイムで4番手となる。渡辺も同じく最後のアタックで2分07秒999を記録し5番手につける。
<決勝レース1>
オープニングラップは清成、中須賀、安田、酒井、渡辺の順でコントロールラインを通過。酒井は安田のテールをしっかり捕えレース序盤から3位争いが過熱。しかし、酒井のペース以上に安田がペースを上げて周回し始めると徐々に差が開き始める。そして酒井は単独4番手での走行となりそのまま4位でチェッカーとなった。また、渡辺は2周目のヘアピンで亀谷(ホンダ)にかわされ6位走行となる。渡辺はこのままの順位をキープし6位でのチェッカーとなった。
2007年レースの歴史写真<決勝レース2>
そして渡辺のシリーズチャンピオンを賭けて迎えたレース2。ここでも清成がホールショットを奪いレースをリードする展開となる。そして2番手争いは安田、中須賀、酒井の間で繰り広げらる。酒井が6周目に中須賀をかわし3番手に浮上したが、その間に安田が徐々に抜け出し単独2位となってしまう。酒井は更に上位を目指し走行を続けたが3位でのチェッカーとなり今シーズン3度目となる表彰台に上がった。
渡辺はオープニングラップを6番手で通過するが、レース中盤に大崎(ヤマハ)、徳留(ホンダ)、伊藤(ホンダ)にかわされ9番手での走行となってしまう。渡辺にはシリーズチャンピオンという大きなプレッシャーがのしかかっての走行となるが、今シーズン最後のレースを9位でフィニッシュ。
渡辺はシリーズチャンピオンに輝きヨシムラにとって1989年のダグ・ポーレン(TT-F1/F3のダブルタイトル)以来の18年振りとなる全日本のタイトルをもたらした。また、酒井はシリーズランキング3位で初年度を終えた。

 

2008s

2008

鈴鹿300km耐久ロードレース

2008年レースの歴史写真<公式予選>
公式予選はA組/B組、第1/第2ライダーに分けて、2セッションで争われる事となった。12号車の酒井(第1ライダー)/渡辺(第2ライダー)ペアはB組、34号車の秋吉(第1ライダー)/加賀山(第2ライダー)ペアはA組のエントリーとなった。
公式予選1回目。全てのセッションでトップタイムとなる2分8秒台を酒井/渡辺、秋吉/加賀山がそれぞれ記録し、順調な仕上がりを魅せる結果となった。
公式予選2回目は明日の決勝レースを見据え、加賀山、渡辺はマシンのセットアップを進めながら2分9~10秒台の安定したタイムでアタックを続けた。そんな中、秋吉だけが2分08秒前半のタイムを決勝用のタイヤで記録。それまでのセッションでヨシムラは1-2番手のタイムを記録していたが、最終のセッションでC・チェカ(ホンダ)が2番手のタイムを記録する。
公式予選の最終結果はポールポジションに秋吉/加賀山ペア、2番手にC・チェカ/清成ペア、3番手に酒井/渡辺ペアが納まることとなった。

2008年レースの歴史写真<決勝レース>
前日まで心配されていた決勝レースの天候は降雨も無く、薄雲の間から陽が差しドライコンディションで行なわれた。ホールショットは清成(ホンダ)が奪い、秋吉が2番手で続いたが、2コーナーからS字コーナーあたりでコース上にオイルがあり、そのオイルに乗って多重クラッシュが発生してしう。レースは赤旗中断となり仕切り直しで再スタートすることとなった。
約1時間遅れて再スタートとなった決勝レースでもホールショットは清成が奪い、酒井が2番手につける。秋吉はスタートで若干手間取り、オープニングラップは5番手でコントロールラインを通過する。秋吉は2周目から2分08秒台での周回となり、前を走るJ・レイ(ホンダ)と山口(ホンダ)を続けてかわし3番手にポジションアップ。そして秋吉は3周目にはこのレースのファステストラップとなる2分08秒016を記録し2番手の酒井と、トップの清成をかわしてトップに浮上。レース序盤から酒井は清成と2番手争いを繰り広げる。酒井は10周目に清成を捕え2番手に浮上するが、12周目には清成にかわされてしまい3番手にポジションをさげてしまう。しかし、酒井は13周目に再び清成をパスするが、今度は14周目に酒井は三度清成にかわされてしまう。
2008年レースの歴史写真25周目トップを独走する秋吉が2番手に13秒の大差を築いて最初にピットインをして加賀山に交代となった。この周回に清成、酒井もピットインとなり、清成はC・チェカへ、酒井は渡辺に交代となりレース後半がスタートした。
加賀山は2分10秒台の安定したラップで確実に周回を重ね、渡辺はC・チェカをピッタリマークしての走行となった。しかし、30周目以降C・チェカが渡辺よりも1秒以上早いペースで周回を重ね始める。そして36周目には加賀山とC・チェカとの差は10秒を切ってしまう。それでも加賀山はペースを上げること無く、2分10~11秒台の安定したラップで確実に周回を重ね、チェッカーまで残り10周となったところで加賀山とC・チェカとの差は5秒となる。残り8周となり加賀山とC・チェカとの差はついに3秒となったところで、加賀山はそれまでの2分10~11秒台の走行から2分9~10秒台へペースアップ。そして加賀山はファイナルラップまでトップを守り切り、2005年以来の鈴鹿300km耐久レース2回目の優勝を飾った。また、3番手での単独走行となった渡辺は、そのまま3位でチェッカーを受けた。

全日本ロードレース選手権シリーズ

2008年の参戦体制はヨシムラSUZUKI WITH JOMOより1年振りにヨシムラ復帰となる秋吉耕佑。そしてヨシムラ2年目となる酒井大作がヨシムラSUZUKI WITH デンソー IRIDIUM POWERより参戦することとなった。

第1戦 もてぎ
2008年レースの歴史写真<公式予選>
午前中に行なわれた予選1回目。秋吉が予選開始直後にコースレコードとなる1分49秒726を叩き出す。一方の酒井は3番手のタイムをマークした。
午後に行なわれる予選2回目は20分間の第1セッションで25位以下のグリッドが決定、15分間の第2セッションで13~24位のグリッドが決定し、そして12分間の最終セッションでポールポジション~12位のグリッドが決定する為、一瞬でも気の抜けないノックアウト方式が開始となる。
予選2回目第1セッション、秋吉がトップタイムをマークすると、酒井も4番手のタイムで第1セッションを通過。第2セッションでは酒井がトップタイムをマーク。秋吉は3周目に3番手のタイムを記録すると、ここで第2セッションの走行を切り上げマシンのセットアップを詰めるためピットイン。第2セッション終了後5分間のインターバルを挟み、ついに最終セッションがスタートした。
2008年レースの歴史写真秋吉、酒井共に2周を走り終えると予選タイヤに履き替えるためにほぼ同時にピットイン。残り5分を切ったところで秋吉がコースイン。アタックラップに突入した秋吉は午前中に記録した自身のコースレコードを上回る1分49秒094を記録する。また、同じ周回に酒井もアタックラップに突入し1分49秒820を記録して2番手のタイムをとなる。結果、決勝レースのスターティンググリッドは秋吉かポールポジション、酒井がフロントロー2番手からのスタートとなった。
<決勝レース>
快晴に恵まれた決勝レース。スタート前のサイティングラップを走り終えた秋吉はグリッドにつかずピットイン。レースウィーク中から原因不明のシフトトラブルが秋吉のマシンに発生。出来る限りの対策をしましたが、チームとして危険と判断し秋吉は決勝レースをリタイアすることになりました。
決勝レース、オープニングラップを中須賀(ヤマハ)、山口(ホンダ)、酒井の順でコントロールラインを通過。酒井は2周目以降1分51秒台のハイペースで山口を追走する。そして、3周目の90度コーナーで酒井は山口をかわして2番手に浮上。更に酒井はトップの中須賀を上回るハイペースで周回を重ね、5周目に1秒7あった差が8周目にはテールツーノーズとなる。しかし、中須賀はここからペースを上げ酒井との差が徐々に開き始める。酒井は中須賀を懸命に追うが僅か届かず、2位でのチェッカーとなった。

第2戦 筑波
<公式予選>
ウェットコンディションの公式予選となりA組の秋吉が開始早々からハイペースで予選をリードし8周目に記録した1分1秒159がA組のトップタイムとなる。
B組の酒井は残り2分となった21周目に1分1秒344を記録してB組の2番手となった。B組のトップタイムは手島(ホンダ)が記録した1分1秒150となった。
公式予選2回目は雨足が更に強くなり、秋吉、酒井ともに予選1回目のタイムを更新できずに終了となった。決勝レースのスターティンググリッドは秋吉がフロントロー2番グリッド、酒井はフロントロー3番グリッドを獲得した。
2008年レースの歴史写真<決勝レース>
決勝レース、ホールショットを2列目4番グリッドスタートの中須賀(ヤマハ)が奪うと、オープニングラップを中須賀、手島、秋吉、山口(ホンダ)、酒井の順でコントロールラインを通過。秋吉は3周目に手島をかわし2番手にポジションアップ。4周目にはこのレースのファステストラップ(56秒477)を記録し、トップの中須賀の背後に迫る。そして、秋吉は6周目にトップに浮上するが、中須賀は秋吉をピッタリマークしての走行を続ける。15周目には中須賀がトップに再浮上すると、秋吉も18周目にトップを奪い返し、中盤以降トップ争いが過熱していった。
このトップ争いを後目に、7周目に3番手に浮上した酒井がトップグループとの差を徐々に詰め始める。7周目にはトップと2秒以上の差があったが、レース中盤となる18周目には0.7秒までタイムを詰める。
レース終盤となる26周目。秋吉と中須賀はサイドバイサイドの状態で1コーナーに進入。中須賀が1コーナーを先に抜け秋吉は2番手に後退。そして、秋吉と中須賀はテールツーノーズのままファイナルラップへ突入した。秋吉はバックマーカーの処理に手間取り中須賀の先行を許してしまい、2位でチェッカーとなった。一方酒井は26周目に後方から追い上げてきた手島にかわされ4位でのチェッカーとなった。

第3戦 オートポリス
<公式予選>
第3戦の公式予選は50分1回のみで争われ、上位12台がスーパーポールへ進出する方式が採用された。(スーパーポールとは公式予選での上位12台が1周のタイムアタックで最終的なグリッドを決定する方式。)
午前中に行なわれた公式予選、秋吉が唯一となる1分58秒台を記録して暫定トップとなる。一方の酒井は9番手のタイムでスーパーポールへの進出をきめた。しかし、午後に予定されていたスーパーポールは天候不良のため中止。午前中に行なわれた公式予選の結果がそのまま決勝レースのスターティンググリッドとなった。
2008年レースの歴史写真<決勝レース>
決勝レースは不安定な天候であったがドライコンディションの中行なわれた。ポールポジションからスタートの秋吉が1周目からトップに立ち、オープニングラップは秋吉、中須賀(ヤマハ)、手島(ホンダ)の順番でコントロールラインを通過。秋吉は8周目にはこのレースのファステストラップとなる1分50秒450というタイムを叩き出し、2番手以降を引き離しにかかるが、2番手の中須賀だけが秋吉についてくる。秋吉と中須賀は3番手以下よりもラップタイムが1周につきコンマ5秒近くも速く、その差を徐々に広げていった。レース中盤となっても秋吉はペースを緩めず周回を重ね、徐々に中須賀を引き離し始める。秋吉はその後一度もトップを譲ること無く、最終的には2番手の中須賀に3秒以上の差をつけてトップでチェッカーを受け、ヨシムラに2008年シーズン初優勝をもたらした。
3列目スタートとなった酒井は、1周目には6番手に、2周目には5番手に、3周目には3番手までポジションを上げてトップグループの秋吉と中須賀を追う展開となる。酒井は5周目に、後方から追い上げてきた柳川(カワサキ)にかわされ4番手となるが、酒井は柳川に離されることなく背後をピッタリマーク。そして残り3周となった15周目についに酒井が柳川をかわし3番手に再浮上。そして酒井は柳川の追走を抑え切り3位でのチェッカーとなった

第4戦 スポーツランドSUGO
<公式予選>
第4戦は予選を数回行いライダーを絞り込みながらグリッドを決定するノックアウト方式が採用された。 公式予選1回目。秋吉はベテランの強さを発揮、予選中盤の11周目に記録した1分28秒220がトップタイムとなる。酒井も終盤18周目に1分28秒637を記録して2番手に。順調に午後の予選2回目セッション1へと駒を進めた。
公式予選2回目(セッション1)。霧雨の中、いよいよノックアウト方式予選のセッション1が開始。秋吉が4周目に記録した1分40秒244がトップタイムとなる。2番手は山口、酒井も9周目に1分40秒875を記録して3番手となりセッション2へと進んだ。公式予選2回目(セッション2)。秋吉は2番手、酒井は3番手となり、最終予選となるセッション3への進出を決めた。
公式予選2回目(セッション3)。両ライダー共、ポールポジションを目指してピットアウトするが、上手くタイムを詰める事が出来ず、酒井は1分40秒793で4番手。秋吉は6番手となる。トップタイムは山口が記録した1分38秒361となった。
<決勝レース>
朝から降り続く冷たい雨、午後になっても止むどころか強くなってゆく。酒井は二列目4番グリッド。秋吉も二列目6番グリッドからのスタート。ホールショットを奪ったのは中須賀、続いて山口、伊藤、大崎、5番手に秋吉、亀谷、7番手に酒井となりオープニングラップを終了。2周目に何とトップを走る中須賀が転倒、山口がトップになり3周目には山口、伊藤、大崎で先頭グループを形成、少し間隔を開けて5番手に酒井、6番手に秋吉と展開が続いた。
11周目に110Rコーナーで秋吉が転倒リタイアとなってしまった。
その後、酒井は伊藤に肉薄するものの、視界も路面状況も悪くなる中で抜く事が出来ず、我慢の走行が続く。レースも後半になった17周目、トップの山口がハイポイントコーナーでまさかの転倒。その直後に天候条件悪化により赤旗が振られレース中断となった。各マシン、ピットインをして待機。天候回復の状況判断を仰いでいたが更なる天候悪化の為にオフィシャル、ライダー共に協議の上、前周の時点でレース成立となった。よって16周目時点での順位が正式結果となったために山口が優勝となり酒井は5位入賞となった。

第5戦 鈴鹿
2008年レースの歴史写真<公式予選>
公式予選はA組、B組の2組に分けられ、午前と午後それぞれ1回(25分)の計2回で争われることとなった。
公式予選1回目:
A組の秋吉は1周だけ走るとピットに入り、マシンのセッティング変更をして再びコースイン。公式予選の半分が過ぎ、ここまで暫定トップのタイムをマークしていた中須賀(ヤマハ)のタイムを秋吉が2分08秒140を記録し、A組の暫定トップで予選1回目が終了した。
B組の公式予選は開始早々に安田(ホンダ)と手島(ホンダ)が接触し転倒。更に柳川(カワサキ)もスプーンカーブで転倒をしてしまう。そして、予選開始からトップタイムをマークしていた酒井も何と200Rシケインで転倒をしてしまう。予選開始から10分も経たないうちに上位陣が次々と転倒してしまう波乱の予選となったB組は、酒井が記録したタイムがトップタイムとなった。
公式予選2回目:
午後に行なわれた公式予選2回目は午前よりも気温、路面温度も上がり、厳しい条件のもと行なわれることとなった。
A組では残り11分となったところで秋吉が前後フレッシュタイヤに履き替えアタックラップに突入。秋吉は3周続けてアタックを続け全て2分07秒台を記録。そしてコースレコード更新となる2分07秒295でA組のトップで予選を終了した。
一方、酒井は午前の転倒の影響もあり、体の調子を見ながらの走行となった。B組では安田が2分09秒台でトップタイムをマークして予選が終了となった。 2回の公式予選が終了して、秋吉が今季3度目となるポールポジションを獲得。酒井は3列目8番グリッドで決勝レースを迎えることとなった。
2008年レースの歴史写真<決勝レース1>
ポールポジションスタートの秋吉がホールショットをとり、オープニングラップを秋吉、中須賀、徳留(ホンダ)の順でコントロールラインを通過。1周目終了の時点で秋吉は2番手に1秒のマージンを作り、更に2周目からは2分08秒台のハイペースで2番手以下を引き離しにかかる。また、負傷を押して決勝レースに臨んだ酒井だったが、1周を走りリタイヤすることとなった。
順調にトップを快走する秋吉は、折り返しとなる8周目には2番手の伊藤(ホンダ)に5秒以上の差をつけ、そのマージンを保ったまま秋吉はトップでチェッカーを受けた。
<決勝レース2>
レース2でも秋吉がホールショットをとり、オープニングラップを制すると、2周目にはこのレースのファステストラップとなる2分07秒744を記録。終始、秋吉は完璧なレース運びでレースをリードする。そしてレース1と同じく1度もトップを譲ることなく、独走でチェッカーを受け、今季3勝目を飾った。

第6戦(最終戦) 岡山国際
2008年レースの歴史写真<公式予選>
公式予選は午前の予選1回目で27台に絞り込まれ、午後の予選2回目からは3セッションに分割されながら出走台数を絞ってゆくノックアウト方式を採用。セッションQ1(25分間)の上位24台がセッションQ2(15分間)へ進出、最終であるセッションQ3(15分間)では生き残った12台がタイムアタックをし、トップグリッドを争うという過酷な予選方式となった。 公式予選1回目:
秋吉は開始早々の4周目にコースレコードとなる1分28秒566を記録してトップタイムで公式予選2回目の進出を決めた。酒井は6番手のタイムで午後のノックアウト予選2回目へと駒を進めた。
公式予選2回目:セッションQ1:
いよいよノックアウト方式の公式予選2回目が開始。秋吉が午前中のタイムを上回る1分28秒550を記録。2番手には伊藤、酒井も1分30秒257を記録して3番手となり順当にセッションQ2へと進んだ。
公式予選2回目:セッションQ2:
セッションQ2では伊藤がトップタイムを記録し、秋吉が2番手。酒井が4番手のタイムでいよいよ最終のセッションQ3への進出を決めた。
公式予選2回目:セッションQ3:
セッションQ2から10分間のインターバルをとり、いよいよポールポジションを賭けて最終のセッションQ3が開始された。秋吉はコースレコードを更新させる1分28秒387でトップタイムを記録。酒井も第5戦で痛めた肩を気遣いつつも気合いの走行で4番手のタイム1分28秒889を記録した。結果、決勝レースは秋吉がポールポジションから、酒井が2列目4番グリッドからのスタートすることとなった。
また、この公式予選の結果、秋吉は全日本ロードレース選手権が行われたサーキット全てのコースレコードを樹立するという快挙を達成した。 
<決勝レース1>

2番手スタートの伊藤がホールショットをとり、オープニングラップは伊藤、秋吉、酒井の順でコントロールラインを通過。2周目以降は秋吉がトップの伊藤を追うレース展開となるが、伊藤もハイペースで後続を突き放しにかかり、レースも終盤となる10周目にはその差は10秒となってしまった。秋吉は最後まで懸命に伊藤を追うが2位でのチェッカーとなった。
また、酒井は2周目に柳川(カワサキ)にかわされると、10周目にはコースアウトもあり、9位でレース1を終えることとなった。
<決勝レース2>
秋吉がホールショットをとると、酒井が2番手で秋吉に続き最高の形でレース2がスタートした。秋吉が先頭でレースをリードし、酒井が必死に付いて行く。秋吉がトップのままレースは進んで行ったが、5周目を迎える頃には3番手の伊藤が徐々にペースを上げ始めた。そして6周目に酒井が伊藤にかわされると、この時点で秋吉と伊藤の差は約2.5秒だったが、レース中盤には秋吉の背後まで迫るペースで伊藤が急接近する。しかし、13周目に何と、マイクナイトコーナーで秋吉と伊藤が同時に転倒。秋吉、伊藤共にリタイヤとなってしまった。この2台のリタイヤでトップに立ったのは、3位を独走する酒井。酒井は2番手以降を大きく引き離していたが、最後までペースを緩めず、体の負傷をこらえてトップでチェッカーを受けJSB1000クラス初優勝を飾った。

 

2009s

2009

2009年レースの歴史写真鈴鹿8時間耐久レース:優勝
いよいよ2009年の鈴鹿8時間耐久ロードレースが始まった。今年ヨシムラは第1ライダー:酒井大作、第2ライダー:徳留和樹、第3ライダー:青木宣篤の3人体制で、昨年失った優勝トロフィーを奪還するために鈴鹿に乗り込んだ。
第3ライダー計時予選開始。青木は予選途中でタイヤをニューにして再度タイムアタック。うまくクリアラップを取れた青木は、最後の最後の周回で2分8秒373という第3ライダーとして断トツのタイムをたたき出す。このタイムがヨシムラとしての予選最速ラップとなり、ホンダ2台に続く計時予選3番手で土曜日のトップ10トライアルに臨むこととなった。
また、25日(土) トップ10トライアルでヨシムラSUZUKI with JOMOは、ホンダの2台に続く3番手で決勝レースを迎えることとなった。
午前11時30分、天気予報では午後から雨という予報の中、いよいよ2009年の鈴鹿8時間耐久レースがスタートした。午後7時30分 8時間終了。酒井がトップのままファイナルラップを迎える。そして歓喜の瞬間がきた。ヨシムラSUZUKI with JOMOは、2位以降に1ラップ以上の差をつけ、1978年、1980年、2007年に続く4度目の8耐優勝を果たした。

2009 “Road to 8hours”鈴鹿300km耐久ロードレース
開催日/予選:6月13日(土)、決勝:6月14日(日)

2009年レースの歴史写真鈴鹿8時間耐久ロードレースの前哨戦「 “Road to 8hours”鈴鹿300km耐久ロードレース」が鈴鹿サーキットで開催。ヨシムラスズキwith JOMOは第1ライダーに酒井大作と、第2ライダーに徳留和樹の強力なコンビでエントリーとなった。2008年度の優勝に続く鈴鹿300kmレースの2連覇と、7月に控えている鈴鹿8時間耐久ロードレースで優勝する為にも、データ収集を含めて、とても重要なレースとなった。

予選レポート:
公式予選1回目:(40分)
12時25分から行なわれた1回目の公式予選は徳留が全て走行。徳留は周回数を重ね、2分08秒789のタイムで3番手で終了。2回目の予選につなげた。

公式予選2回目:(40分)
14時50分から行なわれた2回目の公式予選は今度は酒井が全て走行し、2分08秒997を記録して午後の走行としては4番手となるが、公式予選の総合で酒井/徳留ペアはホンダの2台に続く3番手で決勝を迎えることとなった。

2009年レースの歴史写真決勝レポート:
決勝レースは初夏を思わせるような陽気の中、恒例のル・マン式で13時10分にスタート。
酒井はスタートが決まって、山口選手に続く2番手で1コーナーに進入。そのまま山口選手の後ろにつけた酒井は、1周目の裏ストレートでトップの山口選手をパス。オープニングラップをトップで終了。しかし2周目のS字で山口選手にかわされると、スタートに出遅れた秋吉選手にも逆バンクでかわされてしまった。酒井はこの2台を懸命に追うが、ペースが上がらず、ハイペースで周回を重ねる2台からじりじりと遅れ始めてしまう。そして8周目には後ろから追い上げてきたカワサキの柳川選手にもかわされてしまい。単独4位走行となった。
そして25周を走り切った酒井はピットイン。交代した徳留はすぐさま3位のカワサキの高橋選手をパスし、同じくライダー交代を行った小西選手を追撃。 小西選手が2分12秒で走行するなか徳留は2分11秒台で走行し、少しずつ小西選手との差を詰めていきたかったのだが、バックマーカーをかわしながらの走行の為になかなか差が詰まらず、我慢の走行が続いた。ところがレースが動き始めたのが残り数周となった時である。2位を走行していた小西選手のマシンが急に失速。ガス欠症状を起こしている様子であった。ここで徳留が猛追開始。残り周回で差を削り取っていき、残り1周でその差が20秒弱。徳留は最後まで前を走る小西選手を追ったが惜しくも約10秒及ばず。ヨシムラの酒井/徳留コンビは3位でフィニッシュとなった。

酒井大作選手コメント:
「正直3位は悔しいです。しかし、応援してくださった皆様のおかげで表彰台に立つことが出来ました。有難うございます。レースでは僕自身がレースウィーク中に転倒をしたこともあって、マシンのセットアップを詰め切れず、上手くコントロール出来なくて厳しいレースとなってしまいました。本番の8耐では優勝できるように頑張りますので、応援宜しくお願いします。」

徳留和樹選手コメント:
「鈴鹿300km耐久ロードレースで初めてGSX-Rで10ラップ以上の走行となったので、連続走行でタイムが落ちたり、どう盛り返すかが正直わからない状態での本番走行でした。本当は1周のアベレージを1~1.5秒くらい上げたかったのですが、10周を過ぎたあたりからのマシンの挙動がわからず、完走を意識した走行となってしまいました。また、バックマーカーの処理で戸惑う場面もありましたが、8耐本番へ向けて良いデータが取れ、収穫のあるレースになりました。本番の8耐は頑張ります。」

加藤陽平監督コメント:
「悪い状況の中、表彰台に立てたことは評価できます。しかし、チームの目標からは程遠い結果と内容でした。チームにスピードがないわけではなく、今回は事前テストから悪い流れとなり、修正が利きませんでした。今一度、エンジン/車体/タイヤのセットアップを見直し、必ず8耐本番には勝負の出来るところまで持っていきます。」

MFJ全日本ロードレース選手権シリーズ

2009年全日本ロードレース選手権シリーズがついに開幕。今年の参戦体制はヨシムラ3年目となる酒井大作がヨシムラSUZUKI with JOMOより参戦。開幕戦の舞台は茨城県筑波サーキット。事前テストで徐々に調子を上げてきた酒井がそのままの勢いでレースウィークを迎えることとなった。
2009年レースの歴史写真そして、第5戦で酒井大作は今シーズン初の優勝を飾った。第6戦でも優勝し、酒井は2戦連続の優勝でランキングがついにトップに浮上。最終戦の鈴鹿(MFJグランプリ:2ヒート)へ向けて最高の結果を残し、シリーズチャンピオンに王手をかけた。
最終戦の決勝レース2の天候は雨となってしまい、レース1と打って変わってレインコンディションでのレースとなった。
決勝レース2のオープニングラップは1コーナーで酒井がトップを取れると思われたが、それを中須賀選手がゆるさずに、中須賀選手、酒井、伊藤選手の順で1コーナーへ進入した。酒井はトップの中須賀をしっかりとマークし抜き所を探しながら周回を重ねていたが、4周目に後方から追い上げをみせる秋吉選手に、そして5周目には伊藤選手にもかわされてしまう。4番手にポジションを下げてしまった酒井ではあったがここからペースを上げ始める。
そして酒井は13周目にはこのレースのファステストラップ54秒670を刻み、3番手の伊藤選手に迫る。テールツーノーズで伊藤選手の背後に迫るが、なかなか前に出ることは出来ず、このままの順位ではシリーズタイトルが取れない酒井は、レースも残り5周となった16周目に伊藤選手に仕掛ける。しかし、S字コーナーで伊藤選手と接触転倒。激しくバリアに滑っていったマシンは大破してしまい、そのままリタイヤとなってしまった。
最終戦の結果、酒井はシリーズランキング2位で2009年度のシーズンを終えた。

2009年レースの歴史写真
2009年レースの歴史写真

 

2010s

2010

鈴鹿8時間耐久レース:6位入賞

2010年レースの歴史写真ヨシムラスズキ with ENEOSは、7月22日(木)~7月25日(日)に鈴鹿サーキットで開催された「”コカ・コーラ ゼロ”鈴鹿8時間耐久ロードレース 第33回大会」において酒井大作、青木宣篤、加賀山就臣のコンビでスズキGSX-R1000を駆り、一時はトップを快走するも、2度の転倒やマシントラブルがあり6位入賞という結果となった。

2010 “Road to 8hours”鈴鹿300km耐久ロードレース
開催日/予選:6月12日(土)、決勝:6月13日(日)

鈴鹿8時間耐久ロードレースの前哨戦「 “Road to 8hours”鈴鹿300km耐久ロードレース」が鈴鹿サーキットで開催。ヨシムラスズキwith JOMOは第1ライダーに酒井大作と、第2ライダーに青木宣篤の強力なコンビでエントリーとなった。7月に控えている鈴鹿8時間耐久ロードレースで2連覇をする為にもデータ収集を含め、とても重要なレースとなった。

2010年レースの歴史写真
2010年レースの歴史写真
2010年レースの歴史写真
2010年レースの歴史写真
2010年レースの歴史写真
2010年レースの歴史写真
2010年レースの歴史写真
2010年レースの歴史写真
2010年レースの歴史写真

予選レポート:
公式予選1回目:(40分)
12時20分から行なわれた1回目の公式予選は青木が全て走行。青木は2回目の予選につなげる2分09秒003のタイムで3番手で終了。

公式予選2回目:(40分)
14時35分から行なわれた2回目の公式予選は今度は酒井が全て走行し、2分08秒753を記録する。公式予選の結果はトップと約0.4秒差の2番手となった。またトップタイムは秋吉選手(ホンダ)が記録した2分08秒385となった。

決勝レポート:
決勝レースは今にも雨が降り出しそうなドライコンディションの中、恒例のル・マン式で13時10分にスタートをするはずだった。ところが2周のサイティングラップを開始した辺りから西コースで雨が降り出した。ほぼ全車がスリックタイヤを装着してサイティングラップを行っていたが、ピットインするマシンも出始め、このままスタートするのは危険との判断が下されてスタートは順延。改めて各車タイヤを装着しなおすためにピットに戻っていった。
1stライダーを担当する酒井はタイヤをスリックからレインへ履き替えてコースイン。改めてサイティングラップを行った後、決勝レースは周回数52周のまま再スタートが切られた。ここから熾烈な戦いが開始されることとなる。
レースは雨が降ったりやんだり西コースでは雨が降り、東コースでほぼドライと目まぐるしく変わる路面状況と非常に難しい天候の読みの戦いとなっていった。まず酒井は慎重にスタートを行い、ホンダ秋吉選手とトップ争いを繰り広げた。ところが雨がやんで路面がドライになると見たホンダ亀谷選手がスリックタイヤにチェンジ。レインタイヤを装着した他のチームと一周10秒近くも早いタイムで周回を始めた。それを見たチームと酒井は12周目にタイヤ交換のためピットイン。タイヤをスリックに交換してコースへ復帰した。他チームも次々とタイヤ交換のためにピットインを始めたが、再び雨が部分的に降り始め、場所によってはかなりの降り方をする。スリックタイヤとレインタイヤが入り乱れたコース上は、サバイバルレースの様相を呈していた。
酒井はスリックタイヤに交換して順位を下げていたが、その後ハイペースで周回を重ね2番手まで順位を上げて、24周を走り終えたところでピットイン。酒井は路面状況等からタイヤは交換せずに給油だけを行い、青木へライダーチェンジをした。
酒井の判断が功を奏して青木は28周目にトップのホンダ亀谷選手をかわしトップへ浮上。順調に周回を重ねていく。その背後からホンダの秋吉選手と高橋選手が猛追、12秒近くあったタイムが4秒近くまで接近した。しかし秋吉選手、高橋選手ともにガス給油の必要があったために、チームはあせることはなかった。そして両選手共に給油のためにピットインを行った時点で独走態勢を築くことに成功。その後はガス欠をしない様コントロールしながらの走行を行った。そして2番手に約50秒の差をつけて52周を走り切り、ヨシムラスズキwithJOMOは天候に翻弄された難しいレースをチーム一丸となったレース運びで、今年初の国内レースで優勝を果たすこととなった。

加藤陽平監督コメント:
ヨシムラ2010年初戦となった鈴鹿300kmに、お蔭様で優勝することが出来ました。たくさんのヨシムラファンの方々が鈴鹿サーキットに来て頂き、旗とラッパで応援を受ける中でヨシムラとして完璧なレースで優勝できた事を非常にうれしく思います。今回のレースはパラパラと雨が落ちる中で、雨量が多くなったり少なくなったりと非常に状況判断が難しいレースでした。そんな中、酒井大作、青木宣篤の両ライダーがコンディションに合わせ、完璧なペースを刻んでくれたのが今回の勝因です。チームとしてピットインのタイミングやタイヤ選択の決断がタフでしたが、ヨシムラスタッフが一丸となって素晴らしい判断と作業が出来たと思っております。さて、鈴鹿八耐にはディフェンディングチャンピオンとして望むわけですが、敵は非常に強力なホンダワークス車両軍団になりそうです。打倒ワークス!その初心に戻って全力で挑んで参りたいと思いますので、応援よろしくお願い致します。

レース開催データ
■レース名称:”Road to 8hours”鈴鹿300km耐久ロードレース
■開催日時:2009年6月13日(土)~14日(日)
■天候/共に 津地方気象台 15:00発表
 ・6月13日(土)
  天候:薄曇 気温 25.9℃ 湿度 61% 東南東の風 3.1m/s 気圧 1002.3hpa
 ・6月14日(日)
  天候:晴れ 気温 29.1℃ 湿度 43% 北北西の風 5.4m/s 気圧 1004.8hpa
■路面/ドライ
■開催場所/三重県・鈴鹿サーキット(5.821Km)

 

2011s

2011

2011年レースの歴史写真FIM SUPERBIKE WORLD CHAMPIONSHIP 2011に参戦。

鈴鹿8時間耐久レース:2位

2011年レースの歴史写真鈴鹿8時間耐久ロードレース初の10時30分スタートとなった2011年の第34回大会。ヨシムラスズキレーシングチームは、加賀山就臣、ジョシュ・ウォーターズ、青木宣篤の布陣で2大会ぶりの優勝を目指す。 決勝レースまでに行われた全てのセッション(フリー走行、公式予選)でヨシムラスズキレーシングチームがトップタイムをマーク。決勝レースに向けて万全の体制で予選までを終了。しかし大接戦となった決勝レースではトップと約38秒差の2位で18時30分を迎え、2011年の鈴鹿8時間耐久ロードレースは終了となった。

 

 

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